【アイヌ問題について】小学生の娘が卒業研究テーマで調べました

アイヌ問題について、小6の娘が卒業研究テーマとして調べており、よい機会なのでまとめてみます。

これまでも北海道に旅行したときアイヌコタンを観光で訪れたりしているので、少しは馴染みがあったのですが、本格的に調べてみるといろいろな発見がありました。


アイヌ民族(ウィキペディアより)

まず、日本は国家としてアイヌ問題を正式に認めていない(したがって補償もしていない)という事実。そして、アイヌ民族という言葉の定義があいまいであり、アイヌ語を日常で話し、アイヌの暮らしをしている人は日本国内にはすでに現存しないということでした。

アイヌ民族というと、北海道に住んでいた先住民族のことで、本州から来た日本人(和人)とは別のルーツを持っており、同化政策によって歴史上不当に差別を受け、今やその文化は絶滅の危機にさらされている、文字を持たない民族であったこともあり、アイヌ語を話せる人はもうほとんどいない、というのが私の認識でした。

ところが、文献やネットを調べてみると、どうやらそう簡単に割り切れる話ではないようです。

2008年6月に国会で、「アイヌ民族を先住民族とすることを求める決議」が全会一致で可決されました。これを受けて、アイヌ文化の保護や啓蒙活動、そしてアイヌ人に対する教育への援助などに国費が投入されています。

ところが、この「アイヌ民族を先住民族とすることを求める決議」(通称「先住民族決議」)をめぐって賛否両論が沸き起こっています。

これまで国は、「アイヌ問題は存在しない」という態度で、一切の補償を受け付けてきませんでした。また歴代の政治家も「日本は単一民族国家である」(中曽根元首相)、「アイヌ民族は今はまったく同化された」(鈴木宗男)という発言が繰り返され、一方、ウタリ協会(現在は「アイヌ協会」に名称変更)をはじめとしたアイヌ団体は、「アイヌ民族は先住民族だ」と抗議し、正式な謝罪や土地返還、賠償金支払いを要求して真っ向から対立しているのです。

そもそも、この「先住民族決議」は、その前年の2007年に国連が採択した「先住民族の権利に関する国際連合宣言」を受けて可決されたものでした。ところがこの国連の宣言も、アメリカ合衆国、カナダ、オーストラリア、ニュージーランドといった先住民族人口を持つ(そして迫害歴史を持つ)国は反対しています。

そもそも先住民族の迫害というのは、北米インディアン(北米)やアボリジニ(オーストラリア)、イヌイット(カナダ)といった先住民族への虐殺・侵略・収奪といった歴史的な事実なのですが、アイヌ民族の場合は、かなり状況が異なっており、問題を複雑にしています。

まず、そもそも「アイヌ民族」という言葉の定義自体があいまいであるという決定的な問題があります。北海道を中心とした日本の北部に古くから住む人種は、確かに、本土に住んでいた和人とはルーツが異なるのですが、樺太アイヌ(「エンチゥ」と呼ばれている)を含む3大系統7~10分派に別々に分かれており、それをまとめて便宜上「アイヌ民族」と呼んでいます。また、民族という定義もあいまいで、一般的な民族の定義(国家を形成するだけの言語・文化・歴史を持っている集団)にアイヌは当てはまらないようで、アイヌは「民族」というよりは、「種族」「部族」に近いという考えもあります。

また、「アイヌ民族」が北海道地方の「先住民族」であったという歴史的・科学的な決定的な証拠も見つかっておらず、関東以北に住んでいた種族(「エミシ」「エゾ」「蝦夷」などと呼ばれていた)が歴史上登場するのは、鎌倉時代の頃ということです。

さらに重要なことは、アイヌの民族問題(民族の「同化」「国民化」「差別」の問題)は、1970年代にもう終わっていたのではという考えです。2006年の調査では、北海道に23,782人、東京に2,700人のアイヌ系がいるということですが、アイヌ語を日常的に話す人も、アイヌの伝統文化に従って生活している人もほぼ皆無という現状なのです。1935年の時点でさえ、「私は父母がアイヌ語を使うのをほとんど聞いたことがなかった」(知里真志保)ということです。

つまり、和人と同化が進んだ結果、アイヌという民族は現在すでに存在を失ってしまったのです。和人との同化が強制であったか、それとも自主的であったのか、またその過程で人権侵害や差別がどの程度のものであったかは大きく議論の分かれるところです。しかし、ロシアの南下政策に対抗するための北海道の開拓という歴史上避けることのできなかった経緯を考えると、アイヌが独自文化を維持して存続するのはいずれにせよ非常に厳しかったのではないかと推測できます。むしろロシアに占領されて悲劇的に消滅させられるよりは日本に同化したほうがまだ良かったという考えもあります。

もちろん、それで過去の問題がすべて解決されたわけではなく、外国の先住民に対する強制的な民族浄化とは異なるとしても、アイヌに対する明らかな「差別問題」が存在していたのも間違いないようで、その点は社会的にもコンセンサスがあります。

つまり、「アイヌ問題」とは、北米インディアンに対する「先住民の迫害問題」や、ユダヤ人に
対する「民族浄化問題」といったものとは本質的に異なり、むしろ「部落差別」や「在日朝鮮人差別」 に近い日本社会に独特の「社会差別問題」だったようです。。。

娘の卒業研究テーマの話に戻りますが、最初は、卒業研究テーマの題目を安易に「アイヌ民族の人権問題について」としていました。しかし、研究を進めるにつれ、これは複雑な現在社会を象徴する一筋縄では解決できない典型的な社会問題ではないか、と思えてきました。

つまり、アイヌ問題には、集団としての人間の差別意識問題と、日本国家の国民化(教育や文化)推進の影で消え行く運命にあった悲劇的な民族の文化継承の問題だということです。アイヌ問題を正しく理解することは、現在社会の類似した問題解決や歴史の正しい理解にも役に立つのではと考えています。

樺太のアイヌ(1903年)(ウィキペディアより)

アイヌの歴史について

日本史では、紀元前3~4世紀ごろに狩猟・漁撈・採取中心の「縄文時代」から、稲作中心の「弥生時代」への変遷があったとされています。しかし気候の違いのため、北海道は弥生時代を経ずに、「続縄文時代」(紀元前3世紀=7世紀)、「擦文時代」(7~13世紀、鉄器の普及)と独自の時代変遷を経ました。

擦文文化からアイヌ文化への移行は13世紀ごろ(鎌倉時代後半)と考えられていますが、残念なことにこの期間の記録はほとんど残っていません。またアイヌは文字を持たなかったため、それ以降の記録も和人側の記録が中心となっています。

1457年に、現在の北海道函館で、コシャマインの戦いという和人とアイヌの戦いが起きました。この時代になると和人は道南に進出しており、鉄製品などでアイヌと交易を行っていました。鍛冶屋でのもめごとがきっかけで首領コシャマインを中心にアイヌが団結し、和人に対して蜂起したのですが、コシャマイン父子が殺されて戦いは終わり、制圧した蠣崎(かきざき)氏がのちに松前藩を興すことになります。

そして江戸時代(1603年~1868年)に入る直前の1599年に、北海道は松前藩(和人化した蝦夷)がアイヌ(和人化しなかった蝦夷)の統治が始まりました。ちなみに当時の藩主松前慶広の先祖である蠣崎(かきざき)氏は出身が蝦夷地であることから、松前藩の実態は、和人化した蝦夷と本土から到来した和人の混成であったと考えられます。

そして1669年には 有名なシャクシャインと松前藩の戦い(「シャクシャインの乱」または「シャクシャインの戦い」)が発生します。

シャクシャインの戦いは、一般的にはアイヌが和人(松前藩)の支配に対して起こった大規模な蜂起と考えられています。しかしアイヌ民族集団間の漁業権に関する対立(シャクシャインとオニビシの対立)が事の発端で、松前藩はその仲裁役でした。当時は、松前藩による支配のもの、アイヌが厳しい生活を強いられることも多く、アイヌ民族集団間の対立も、松前藩による不当な取引が原因という見方もできます。

静内にあるシャクシャイン像(ウィキペディアより)

オニビシが松前藩と和解(つまり和人との同化)を進めたのに対し、シベチャリ(静内)の総首長であったシャクシャインはあくまでアイヌ民族の独立をめざし、結局シャクシャインはオニビシを殺害しました。その後、シャクシャインは蝦夷各地のアイヌに蜂起を呼びかけ、多くのアイヌが呼応しました。

結局弓矢主体のアイヌ側に対して鉄砲主体の松前藩がシャクシャインを圧倒し、松前藩の陰謀でアイヌの指導者16名が酒宴中に謀殺され、戦いは鎮圧されました。その結果、松前藩は蝦夷地における対アイヌ交易の絶対的主導権を握り、残されたアイヌはよ不利な条件をのまされて一層厳しい状況に置かれ生活圏を脅かされることになりました。

松前藩領内のアイヌ(ウィキペディアより)

当時、アイヌに対して不当な取引の象徴として、「アイヌ勘定」というものがありました。これは、計算の不得意なアイヌの弱みにつけ込んだもので、1を数える前に、「始まり」、そして最後の数のあとに「終わり」を、ひどいときには途中で「真ん中」を余計に足して数を水増しするものでした。

しかし松前藩がそのような不当な交易をアイヌに強いていたというよりは、松前藩や幕府の監視下では公平な取引がされていたが、僻地では悪徳商人(「運上屋」と呼ばれた)による搾取や虐待がされてきたのが事実のようです。いつの世の中にも悪徳商人はいるということでしょうか。。。

さて、そのような歴史を経てアイヌの生活は厳しい状況が続くのですが、江戸時代の間はアイヌと和人の同化は進みませんでした。それは、和人がアイヌを異民族として徹底して差別し隔離したのが原因だったと考えられています。必然的に、アイヌの生活環境は改善することもなかったのですが、その独自文化は継承されていくことになります。

1789年、「クナシリ・メナシの蜂起」が起きます。これは、国後(現在の根室)で商取引や労働環境に不満をもったアイヌが和人に対して起こした戦いです。この戦いも松前藩が鎮圧しましたが、この蜂起をきっかけに、ロシアの脅威が現実となり、松前藩を処分、蝦夷地を幕府直轄統治に変更。アイヌは保護政策で和人との同化を進めることになりました。幕府の理解もあり、以後アイヌの経済的な環境は改善されたものの、和人との同化は加速することになります。

明治政府は、アイヌに対して、日本語教育を推し進め、同時に女性の入墨の禁止や、死者が出たら家を焼いて他に移る習俗の禁止を推奨しました。児童教育については、和人の児童と習慣が違うためアイヌ学校設立して分離教育しました(その後大正末には普通学校と統一されています)。

これは、まだ文明化されていない地域をまず教育を充実させることから始めるという政策で、近代化の恩恵にあずかるという長所がある一方、皇民化教育を押し付けるという弊害も併せ持っていたようです。ちなみに日本は当時、台湾や朝鮮でも同じような政策を踏襲しています(その是非は今日でも賛否両論です)。

1899年(明治32年)には、「北海道旧土人保護法」が制定されます。これは、近代文化(言語や商業など)では遅れていたアイヌに対して、自由平等主義での競争では無理だったので、アイヌを手厚く保護する(土地の貸与、授業料の支給など)ための施策という名目でしたが、アイヌの財産を収奪し、同化政策を推進するための法的根拠として悪用された面もあるようです。いつの時代にも善悪は併存ということでしょうか。。。ちなみにこの北海道旧土人保護法は、1970年にウタリ協会が保護法の廃止に反対しましたが、1997年、アイヌ文化振興法の成立と引き換えに廃止されました。

明治や大正時代になると、アイヌ出身で和人以上に活躍した偉人が出てきました。203高地の戦いや白襷隊で活躍した北風磯吉、日露戦争で活躍、その後南極探検に参加した山辺安之助などです。しかしアイヌに対する差別は激しく、「差別されないためには早く同化したほうがいい」と、子供たちがアイヌ語を話すことを自ら禁じたり、アイヌ出身であることを隠す風潮も見られたということです。


山辺安之助(ウィキペディアより)

現代では、アイヌ生活実態調査(2006年)によると直接の差別を経験した人は17%に留まっており、アイヌが見た目にも和人と同化した現在では、差別問題は過去のものになりつつあるようです。

現在のアイヌ

こうしてアイヌ文化は過去のものとなり、現在は博物館や歴史館でしか観ることのできないものとなりました。萱野茂というアイヌ初の国会議員の尽力で、平取の二風谷村(かつてアイヌ人口比率の最も高かった地域)にはアイヌを偲ぶことのできる史跡が保存されています。また、白老や阿寒などには観光地化したアイヌコタンがあります。

自然との調和を尊重したアイヌ文化がすでに滅びてしまったことは悲劇であり残念なことですが「滅亡」はアイヌだけの運命ではなく、沖縄の琉球文化やハワイのハワイ王国のような同化によって消滅した文化をはじめ、生存するすべての文化の避けがたい宿命でもあります。明治維新後に国際化の波を受けて近代化を与儀なくされた武士文化も同じ宿命であったと言えます。長い人類の歴史のなかでは、特定地域の文化が人間同士の争いのなかで生まれては滅びるというのは自然の摂理でもあるのでしょう。。。

このようにして捉えると、アイヌ文化と過去の歴史を正しく理解したうえで、貴重な伝統文化を後継の世代にしっかりと伝えてゆくということが、現在に生きる我々に課された義務であると思います。日本国民がアイヌに無関心となり、貴重なアイヌ伝統文化を風化させてしまうことこそ、アイヌ問題といえるのではないでしょうか。


イオマンテ(熊送り)(ウィキペディアより)

参考文献・サイト

ウィキペディア アイヌ
「アイヌのむかし話」 四辻一郎
「わしズム 日本国民としてのアイヌ」 小林よしのり
「アイヌ先住民族、その不都合な真実20」 的場光昭
「アイヌが生きる河」北川大
「アイヌ文化の基礎知識」 アイヌ民族博物館 監修 

アイヌ巡りの北海道旅行記(二風谷、白老、屈斜路、阿寒)

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