50歳を過ぎた今はサッカーとはすっかり疎遠になってしまいましたが、学生時代はサッカー部に所属してそれなりに本気でサッカーに取り組んできた過去があります。
以下は70年代にサッカー少年だった時代の振り返り(回顧)です。。。
私がサッカーを始めたのは、小学生のときであり、やはりサッカーをやっていた兄の影響でした。
小学校4年生(?)
上の写真はおそらく小学4年生ごろに自宅の団地の路地でサッカーを練習していたときのものですが、左足で蹴っています。私は手は右利きなのですが、足は左利きだったのです。
サッカーを始めたころは、リフティング(足でボールを連続して地面に落とさずに蹴る)を5回できるように何度も練習したのを覚えています。
当時はサッカーは野球人気の足元にも及ばず、TVやニュースの報道でもほとんど話題になることはありませんでした。
そのなかで唯一といってよい海外サッカーの情報源は、テレビ東京が毎週土曜日に放映していた「三菱ダイヤモンドサッカー」という番組でした。
三菱ダイヤモンドサッカー
この番組のおかげで、イングランドやブラジルをはじめとする世界のサッカーのレベルが如何に高いものかというものが憧れを持って少年時代の心に刷り込まれたのでした。
なかでも、ケビン・キーガンというリバプール(イングランド)のフォワード選手は当時のサッカー少年の憧れの的でした。
ケビン・キーガンのスーパープレー集
当時はイングランドなど遥か別世界という感覚しかなく、日本人からすると桁外れの体格でロングのモジャモジャヘアスタイルのその威容は、畏怖の念の対象でした。良く授業中に友達同士でノートにケビン・キーガンの絵を描いていたのを覚えています。
また、イングランドのプレミアリーグの試合のハイライトを放送していたのですが、ゴールキーパーのキックが、画面の上を突き抜けるほど高く上がることに腰を抜かして観ていたことを覚えています。
中学校生活はサッカー部活が中心でした。東京都有数の強豪サッカー部を持つ中学に進学したからです。サッカー部の担任が、元日本サッカー代表選手だったので、練習は死ぬほどキツかったのを覚えています。今と違ってスポーツは根性がすべてですから、練習中の給水は当然禁止、何かで罰となると成長期の少年には害しかない「うさぎ跳び」でした。まさに「巨人の星」の世界です。
私は当時、痩せ身で背も低く、運動神経も大したことがなかったのですが、サッカーは左足が利き足だったことが幸いして、左のウイング(今ではそういうポジションの呼び名はなくなってしまいましたが)として背番号11番のレギュラーのポジションを確保していました。
左足でのボールさばきなら誰にも負けませんでした。おまけに偏平足の私の足はボールをジャストミートすることは得意だったので、シュートの威力や左からのセンタリングには自信がありました。
センタリングは瞬発力を活かして左足で右足にボールをぶつけてその反動で一気に左コーナーを駆け上がるパターンと、ゴール前では右足でシュートすると見せかけてフェイントで切替して左足でシュートというのが定番でした。
中学に入ってから対外試合で連戦連勝、確か10連勝くらいしたのではないでしょうか。数年前に中高の同窓会で当時の部活の友人から、対外試合での初ゴールは私が決めたと聞かされて驚きました。
中学生時代
ところが、中学2年生のときだったでしょうか、新人戦という公式戦で一番重要な試合で、あろうことか、良いところなく1回戦負けを喫してしまったのです。
激怒した担任から下された罰は、「全員丸坊主」でした。みんなで床屋に行って生まれて初めてバリカンで丸坊主にされ、そのアホな面をお互いに笑い合ったのは青春です。
私は中学2年から3年生に進む頃に脚の成長期の病気(オスグッドシュラッター病)で半年間休部を余儀なくされました。膝の関節が痛み走れなくなる病気でした。
オスグッドシュラッター病(オスグッドシュラッテルシ病とも言う)は成長病のひとつです。詳細についてはこちらを参照ください。大腿四頭筋が膝の下の脛骨につながっている場所が炎症(もしくは裂離)している状態のことです。
オスグッドシュラッター病
私の左膝は今でも半月板の下の部分の骨が突き出ていますが、これは軟骨が剥離を起こして固まった跡なのだそうです。成長期にはこの軟骨が自然に伸びることで身長が伸びるはずだったので、私は短足で身長も伸びなかったというわけです。確かにサッカー選手は短足が多いですね(アルゼンチンのメッシとか)。
中学3年になって再びレギュラーに返り咲きましたが、同級生がレベルアップして、左脚でのキックを練習し始めていました。当然私の不動のレフトウイングのレギュラーの座を狙って。。。
結局、右足が利き足で、それに加えて左足でボールコントロールできるようになったライバルに敵うわけもなく、私はあっけなくレギュラー陥落、そして高校進学を機にサッカー部を退部してしまいました。
そのころ、サッカー界ではアルゼンチンのディエゴ・マラドーナという選手が大きな注目を浴びるようになりました。マラドーナが日本に初来日したのは彼が19歳の1979年ですが、ワールドユース大会代表で国立競技場で試合に出場しました。
別冊サッカーマガジン1979年秋号 ワールドユース'79
私は友人と一緒に国立競技場にマラドーナを観に行ったのです。
試合に勝って大きなアルゼンチン旗を身にまとって競技場トラックをウィニングランするマラドーナの姿は今も良く覚えています(当時サッカー部の先輩は図々しくもマラドーナと一緒にウィニングランに勝手に参加してその写真がスポーツ誌に載りました)。
中学を卒業して高校に入ると、当初50人以上いたであろうサッカー部員は淘汰され、レギュラーと準レギュラー、そして少数のやる気のある補欠だけが残りました。
高校では私はサッカー部としてではなく、サッカー好きと早朝に登校して試合をやったりと、サッカーを初めて楽しんで過ごすことができました。学校の7組対抗のスポーツ大会では、サッカーで初めてセンターフォワードをやり、前半全く良いところなし、クラスの友人から「元サッカー部なのに見掛け倒しだ」と陰口を叩かれ、後半試合終了時に、おそらくその試合唯一のドリブル中央突破で偶然にもディフェンダーを交わして無我夢中で蹴ったシュートが、これまた偶然にもゴール隅に決まるという劇的ゴールで、それが決勝点となり勝利したことがあります。級友にもみくちゃにされたのも良い思い出です。
私が遊びでサッカーに興じている一方、中学から真剣にサッカー部を続けていた友人たちは着々と実力をつけ、ついに全国高校サッカー選手権の東京都の予選大会で決勝まで勝ち進んでしまいました。
全国大会都大会予選で決勝まで進むなんてのは学校創立以来初のことで、学校は大騒ぎ。なんといっても都大会の決勝戦はテレビで放映されることになっているのです。学校はその日休みになり、確かチャーターバスで全校生徒、スタジアムに応援に行った記憶があります。
決勝戦の対戦相手は、これまたなんと、過去に何度も全国大会で優勝して日本一に輝いている強豪の名門、帝京高校です。
試合は、確か0対3くらいで帝京に敗れてしまいましたが、当時の帝京は確か5年連続くらいで東京都代表になった超名門校、そんな強豪相手によく健闘したと思います。私は応援席から、かつて小学校、中学校と同じサッカー部で同じ釜の飯を食ってきた友人たちの英姿を拝みながら、こんなスゴイやつらと昔は一緒にサッカーをやったんだと誇らしい気分になりました。
この頃、キャプテン翼というサッカー漫画が大流行しました。そのおかげで、これまではスポーツでは今一つ人気のなかったサッカーが一躍世の中の脚光を浴びることになります。
そうして高校を卒業して、大学進学、社会人になるまでサッカーとは直接縁のない生活が続きました。
社会人では会社のサッカー部に入って、週末はたまにサッカーの試合に出ました。
社会人時代
しかしそれも異動で職場や勤務先が変わると自然消滅して、それ以来今日までサッカーボールを蹴ることは二度とありませんでした。
そして気が付けばサッカーボールを蹴らずに早や30年。。。
。。。とサッカーの少年時代の思い出を綴るつもりがいつの間にかダラダラとした駄文になってしまいました。50を過ぎたオヤジが昔を懐かしがっているつぶやきと笑っていただければ幸いです。
(おわり)
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