神(宗教)が人間の行動規範となった過去の時代から、資本主義の勃興とともに人間至上主義の現在を経て、将来は、人間は単にアルゴリズムに過ぎないというデータ至上主義の時代が到来するだろうと著者は予測します。
『ホモ・デウス』の著者が示唆する、「人間(人生)はただのアルゴリズムであり、人間の意志がとは無関係に、人生を決めるのはアルゴリズムで、人生はデータ処理に過ぎない」という主張は、「人間が生きる意味とは一体何なのか?」という疑問に対する明確な回答を与えてくれます。
人間という存在そのものは、ダーウィンの進化論に基づいた人間の自由意志そのものであるという考え方に対して、人の運命は、自らの自由意志で決まるものではなく、「創造主である神」によって予めプログラムされているという衝撃的な内容です。
本書の「生物はただのアルゴリズムであり、コンピュータがあなたのすべてを把握する」という結論に至る膨大な根拠は、強い説得力があります。
以下に、本書のエッセンスを、個人的な感想を踏まえて記します(太字は本文の文章)。
1. 現代の契約(第6章)
『近代に入るまで、ほとんどの文化では、人間は何らかの宇宙の構想の中で役割を担っていると信じられていた』ダーウィンの進化論が一般的に認知される以前は、人間の存在(と存在意義)は、科学的な理論では説明がつかず、「創造主である神の存在」が不可欠であると広く信じられており、それが宗教というものでした。
キリスト教をはじめとした各宗教は、現代でもこの考えに基づいており、「神のみこころに従う」ように日常の生活を送っているわけです。
私は、カトリックの信者ではありませんが、上記のようなカトリックの信仰心を、以前のブログ「カトリックの信仰について」で書きました。
カトリックの信仰について
現在社会の様々な問題 ― 驚くべき少年犯罪の増加、未成年の自殺者の急増、政治家の汚職、詐欺事件の増加、などの根源には、「人間が神を信じなくなった」ことが原因だと考えています。
そして、著者はこう書いています。
『現代の文化は、宇宙の構想をこのように信じることを拒む。私たちは、どんな壮大なドラマの役者でもない。人生には脚本もなければ、脚本家も監督も演出家もいないし、意味もない』
『だから、何でも好きなことができる。方法さえ見つけられれば、私たちを束縛するものは、自らの無知以外、何一つない』
この主張は、後に詳しく説明される「人間至上主義」に繋がります。
『新しいテクノロジーが経済成長を促し、経済が成長すれば、さらに多くのお金を研究に回せる。月日の流れに伴って、私たちはますます多くの食べ物を食べ、ますます速い乗り物に乗り、ますます優れた機械を使うことができる。』
今日、FacebookのようなSNSで流れてくる投稿は、高級料理の写真や、渡航先のスナップ、新車購入した高級車、発売されたばかりのApple製品といったもので溢れています。
最近、スウェーデンの環境保護活動家のグレタ・トゥーンベリという16歳の少女が、環境破壊に関して、国連気候行動サミットで演説したことが話題になりましたが、彼女を代表する環境保護派が主張するのが、まさにこの経済至上主義の行き過ぎた末路としての環境破壊です。
著者は指摘しています。
『世界は決まった大きさのパイであるという伝統的な見方は、世界には原材料とエネルギーという二種類の資源しかないことを前提としている。だがじつは、資源には三種類ある。原材料とエネルギーと知識だ』
『現代の経済にとって真の脅威は、生態環境の破壊だ。科学の進歩と経済の成長はともに、脆弱な生物圏の中で起こる。そして、進歩と成長の勢いが増すにつれて、その衝撃波が生態環境を不安定にする。』
世界中の誰もが、現在の経済至上主義と環境破壊の進行を「人類の行き過ぎ」であると認識しているにも関わらず、経済成長を邁進することを止めることができないのは、まさにこのためです。
環境保護と経済成長は、現代のテクノロジーでは両立できません。
どちらかが犠牲になる2者択一なのです。
16歳の少女が国連で訴えたように、(経済成長を主導している)裕福な世界の政治家に非難の矛先を向けるのは果たして正しいことでしょうか??
『裕福なアメリカ人と同じ生活水準を世界中の人々全員に提供するためには、地球があといくつか必要になるが、私たちにはこの1個しかない。』
経済成長で最も恩恵を享受するのは、経済的に恵まれている富裕層だけではなく、実は、膨大な数の貧困層の人々なのです。
貧困層と低所得者層に属する膨大な数の人々が、「裕福なアメリカ人」と同じ生活水準を望む限り、現在の経済成長(とそれに伴う自然環境破壊)を止めることはできません。
アマゾンの森林を伐採しているのは、富裕層ではなく、現地の貧しい農民です。
結局、この問題の根源は、人口増加にあるわけで、他の生物のなかで人間だけが人口増加を許容するのは、地球という限られたスペースしかない世界では限界があるのです。
シャマラン監督の「ハプニング」というサスペンス映画があります。ある日突然、人間が次々に自殺を始めるというストーリーで、自殺の原因が、実は、神の手によるランダムな「間引き」によるものではと示唆して終わります。
過激な環境保護派がランダムな大量殺戮を始めたら大変なことになるのですが、現在の環境問題を解決するためには、何らかの方法で人口増加を食い止めるしか方法はないのでしょうか。。。
自然エネルギーについての議論も、反原発に基づく感情論が支配しており、不毛な議論に終始しています。
自然エネルギー財団によると、日本の発受電電力量に占める火力発電の割合は1990年に9.7%だったのが、2016年には32.3%に急増し、火力発電による二酸化炭素の排出量は、全体の50%にも及びます。これは、多くの原子力発電が操業停止に追い込まれているからです。
誰だって、放射能リスクのある原子力発電を諸手を挙げて歓迎する人はいません。
自分が住んでいる街の中心に原子力発電所を建設する(もしくは放射性廃棄物処理場を作る)と言ったら、猛反対するでしょう。
しかし、現在の経済活動を支える安価で高品質の電力供給のためには、原子力発電以外の選択肢がないというのが事実です。
小泉進次郎が、環境大臣に任命されて入閣したのを、「安部政権の人気取りの政策だ」と非難する人が多いですが、私はそうではないと思います。
安部首相(とその側近たち)の狙いは、反原発を貫く小泉進次郎が、果たして、何の問題解決もできない「環境大臣」という重責を押し付けて、何一つ成果を出せずに終わることを期待しているのではないでしょうか。
そもそも、世界レベルでも解決不能な「経済と環境の両立」というテーマを、日本のような小国の一大臣が解決できるはずがありません。
話を経済成長に戻しますが、こういう話も良く聞きます。
「昔は環境問題もなく、社会問題も深刻ではなかった。人口爆発、環境汚染、貧困拡大、温暖化。。。経済が発展してすべてが悪くなった」
このような主張は、データを分析すると全くの間違いであるということがわかります。
マット・リドレー 著者の「繁栄」というベストセラーには、今の私たちが人類史上最も豊かで高水準な生活を送っている事実について、膨大なデータを提示して根拠を説明しています。
1800年以来、世界の人口は13億人から77億人に6倍になりましたが、平均寿命は72歳と二倍以上に伸びています。直近の50年で比較しても、子供を失う率は三分の一に減り、所得は3倍近くに増え、平均寿命も3割以上伸びています。平均寿命が減った国はたったの三つ(ロシア、スワジランド、ジンバブエ)です。
現代は、死亡率は低く、スーパーには数え切れないほどの食べ物が置かれ、家ではスナックをつまみながらテレビを見ている。。。さらに格安で自由に様々な都市を行き来することもできる。こんな世の中になるとは昔の人々は考えついただろうか!今の私たちはローマ帝国国王も中国の皇帝もエジプトのファラオも手に入れることができなかった医療、食事、娯楽を簡単に手に入れられるのだ。。。かつての労働力だった奴隷は解放され、その役は様々なエネルギーに取って代わられている。。。
経済成長は、宗教や政治の垣根を越えて、全世界の共通の最優先事項となってしまいました。
『今日、ヒンドゥー教、イスラム教徒、共産主義者、その誰もが、経済成長こそ、本質的に違うおのおのの目標を実現するカギであること信じるに至っている』
著者は指摘します。
『人類は気がつくと、同時に二つのレースで走り続ける羽目になっていた。一方で私たちは、科学の進歩と経済の成長を加速させざるを得ないように感じている』
『科学者と技術者がいつも世界の破綻から私たちを救ってくれると信じている政治家と有権者が、あまりに多過ぎる』
これは耳に痛い指摘ですね。
原発反対と感情的に叫び、再生可能エネルギーをその経済性を無視して根拠なく提唱する人々もこの部類です。
まあ、このような風潮を作ってしまったのは、東日本大震災であまりに不甲斐ない対応で信頼が地に堕ちてしまった電力会社(と関連する電力業界や政府)の責任でもあるのですが。。。
「激しい生存競争」について。
『現代の世界は、成長を至高の価値として掲げ、成長のためにはあらゆる犠牲を払い、あらゆる危険を冒すべきであると説く』
確かに、現代の企業はどこも、利益の追求、売上の成長、利益率の改善を組織から個人レエルまで果てしなく追及する仕組みになっており、それに異を唱える人など存在しないかのようです。
『個人のレベルでは、私は絶えず収入を増やし、生活水準を高めるように仕向けられる。たとえ現状で十分満足しているときでさえ、さらに上を目指して奮闘するべきなのだ。作昨日の贅沢品は今日の必需品になる』
ある一定の高所得にならないと、現代の社会(特に物価の高い都心部)では、普通の生活レベル(家族がいて、子供を育て、住宅があり、余暇がある)でさえ実現が難しい現実があります。
しかし、基本的な生活レベルを超えた贅沢を追い求める嗜好も少なからず存在します。
高級車を乗り回す、高級な料理店での食事、豪華な海外旅行、贅沢品、ブランド品、などなど。。。
共通するのは、その価値観は絶対的なものではなく、常に、自分の周囲(もしくはニュースやTVで見る)の他人の生活レベルとの相対的なものであるということです。
他人と比較しないと満足できないというのは、悲しい人間の宿命なのでしょう。
以下の著者の言葉に要約されます。
『環境を保護するというのはじつに素晴らしい考えだが、家賃が払えない人々は、氷床が解けることよりも借金のほうをよほど心配するものだ』
2. 人間至上主義革命(第7章)
『今日、全世界の法と秩序にとって最大の脅威は、神の存在を信じ、すべてを網羅する神の構想を信じ続けている人にほかならない。神を恐れるシリアのほうが、非宗教的なオランダよりもはるかに暴力的な場所だ』これは鋭い指摘です。
神心深い人には、受け入れ難い主張かもしれませんが、現代の社会は、著者が言うように「神は死んだ」のです。
『人間至上主義という宗教は、人間性を崇拝し、キリスト教とイスラム教で神が、仏教と道教で自然の摂理がそれぞれ演じた役割を、人間性が果たすものと考える』
著者は、具体例として、浮気をした女性を挙げて、中世ではその善悪を判断するのは聖書であり司祭であったのが、現代では、人間の自由意志、すわなち、自分自身の欲求や感情であると指摘します。
つまり、浮気という倫理に反した行為であっても、その善悪の判断は、自分の気持ちを注意深く調べることによって判断できるのです。
『人殺しが悪いのは、どこかの神が「殺してはならない」と言ったからではない。そうではなく、人殺しが悪いのは、犠牲者やその家族、友人、知人にひどい苦しみを与えるからだ』
まさに現在の社会はこのような人間至上主義に基づいて動いているわけです。
これは動かしようもない事実なので、今更、「イヤイヤ、そうは言っても、すべての善悪の判断を個人の自由意志に委ねるのはあまりに危険ではないか?」との疑念が沸き起こってきます。
前述のとおり、私は個人的には、現代の日本社会の諸問題の根源は、まさにこの「人間至上主義」にあると考えています。
欧米のキリスト教が教育に根付いている国でも、日本に劣らず悲惨な社会事件や問題はありますが、必ずその根底には、「神を信じる」という規範が存在している気がします。
一方、伝統的に「信仰を持たない」日本人は、人間至上主義という都合の良い口実で、自らの行為(および組織としての犯罪行為までもが)正当化されてしまう傾向が強いと思います。
そもそも、資本主義という仕組みそのものが、キリスト教のプロテスタンティズムから発祥しているのですから、キリスト教を持たない日本人が、欧米の資本主義のよい面だけを取り入れようとしても、歪みが生じてしまうのです。
『政治において人間至上主義は、「有権者がいちばんよく知っている」』
『そのような人間至上主義のアプローチは、経済の分野にも重大な影響を与えてきた。。。(以下省略)。。。顧客は常に正しい。もし消費者がその自動車を欲しがらないのなら、その自動車が良くないのだ』
この理屈の延長線上には、顧客が求める「安価な肉の供給」に応えるためには、遺伝位操作された動物(乳房が重すぎてろくに歩けない牛や、劣悪な環境で卵を産むだけに特化されたニワトリ)も、良心の呵責なく、消費者にとって善い事をしていると解釈されます。
人間至上主義は、裏を返せば、人間以外の生き物の苦痛の代償の上に成立しています。
聞こえは良いですが、こう指摘されると、人間至上主義というのは、実に人間に都合の良いように解釈されたものであることがわかります。
我々は大なり小なり人間至上主義の現代に生きているので、聖人のようにその事実を否定することはできません。
信仰心を持つことについても著者は容赦しません。
『今日は、神の存在を信じないことはたやすい。信じなくとも、何の代償も払わなくて済むからだ』
『仮に私が神を信じていたら、そうするのは私の選択だ。私の内なる事故が神を信じるように命じるのなら、私はそうする。私が信じるのは、神の存在を感じるからで、神はそこに存在すると私の心が言うからだ。だが、もし神の存在をもう感じなければ、そして、神は存在しないと突然自分の心が言い始めたら、私は信じるのをやめる。どちらにしても、権威の本当の源泉は私自身の感情だ』
これは強烈なメッセージです。
神を信じる、という行為そのものが、もはや神よりも自分自身のほうを信じるというパラドックスなわけです。
著者は、人間至上主義では、
『知識=経験x感性』
と説きます(中世ヨーロッパでは、知識=聖書X論理、科学では、知識=観察に基づくデータX数字)。
『人間至上主義の人生における最高の目的は、多種多様な知的経験や情動的経験や身体的経験を通じて知識をめいっぱい深めることだ。人生に頂点は一つしかないー人間的なものをすべて味わい尽くしたときだ』
人間至上主義の分裂
『人間至上主義は三つの主要な宗派に分かれた。正統派の人間至上主義では。。。政治でも経済でも芸術でも、個人の自由意志は国益や宗教の教義よりもはるかに大きな重みを持つべきだ』(自由主義)
『自由主義は、やがて二つのまったく異なる分派を生み出した。社会主義的な人間至上主義と、ナチスを最も有名な提唱者とする進化論的な人間至上主義だ』
香港のデモ活動が毎日ニュースで報道されていますが、香港の若い世代はまさにこの自由主義のイデオロギーで、社会主義的な人間至上主義に対して抵抗しているように見えます。
『人が民主的な選挙の結果を受け容れる義務があると感じるのは、他のほとんどの投票者と基本的な絆がある場合に限られる』
これは私にとっては目から鱗の指摘でした!
ブレグジットの混乱や、日本の不甲斐ない選挙結果も、これですべて説明がつきます。
『自由主義の政治では有権者がいちばんよく知っており、自由主義の経済では顧客がつねに正しいのに対して、社会主義の政治では党がいちばんよく知っており、社会主義の経済では職種別組合がつねに正しい』
中国が共産党一党独裁の政治下で、米国の脅威になるほど大国化し、経済的にも大成功を収めている背景は、まさにこれが背景です。
これまでは、社会主義は自由主義に敗れたと歴史が証明していましたが、必ずしも正しくないことが近年証明されつつあります。
中国の過去10年の経済成長率は7%~10%と脅威的なレベルです(日本は過去10年ほぼゼロ成長)。
中国のような大国が見事に経済成長を果たしているのは、自由主義を否定して国家の発展(すなわち国民の生活水準の向上)を最優先に、そのためには自由の制限という犠牲も払って推進してきたからです。
香港が反発するのは、まさにその部分で、大多数の香港の住民は、大陸の中国(特に内陸部)の中国国民よりははるかに裕福なので、自由を犠牲にした経済成長という計画を決して受け入れることができないのでしょう。
中国共産党の経済成長の背景については、以前の中国訪問(上海)のブログに書きました。
日本人が知らない中国の最新事情(2019年春の上海訪問記)
国家資本主義が自由資本主義より機能しているのではというのが私の見解です。
もうひとつの「進化論的な人間至上主義」については、ダーウィンの進化論という揺るぎない基盤に根差しており、人間の進化のためには争いや自然淘汰(強者が弱者を駆逐する)が必然と考えます。
その極端な例が、ユダヤ人の大量殺戮という悲惨な結果を招くのですが、それだけでなく、ヨーロッパ人がアフリカ人を征服したり、野生のオオカミを絶滅させたりするのも、正当化されることになります。
『進化論的な人間至上主義は近代以降の文化の形成で重要な役割を演じたし、二十一世紀を形作る上で、なおさら大きな役割を果たす可能性が高い』
ナチズムだけが進化論的な人間至上主義ではなく、広義には、科挙や受験戦争なども進化論的な人間至上主義であり、人類はその恩恵に預かってきたわけです。
資本主義自体が、健全な競争社会を前提にしていることもあり、進化論的な人間至上主義が今後も世界の主流となるのでしょう。
しかし、著者はこう締めくくります。
『たしかに自由主義は人間至上主義の宗教競争に勝ち、2016年現在、現実的に見て、それに取って代われるものは存在しない』
『本書は二十一世紀には人間は不死と私服と神聖を獲得しようとするだろうと予測することから始まった。』
『この人間至上主義の夢を実現しようとすれば、新しいポスト人間至上主義のテクノロジーを解き放ち、それによって、ほかならぬその夢の基盤を損なうだろうと主張する』
つまり、人間至上主義は間もなく終焉を迎えるということです。
3. 研究室の時限爆弾(第8章)
『自由主義者が個人の自由をこれほど重要視するのは、人間には自由意志があると信じているからだ』ところが、著者はありとあらゆる実験や洞察の結果、人間にあるのは自由意志ではなく、単なる生化学的な反応に過ぎないとバッサリと切り捨てます。
それは、脳スキャナーやヘルメットを使ったニューロンを刺激する実験や、生命科学の最近の進展により人間の脳の構造が究明され、テクノロジーが証明できるようになったためです。
『人が経済的な決定をどう下すかを知りたがっている行動経済学者も、同じような結論に達している。ほとんどの実験は、決定のどれを取っても、それを下しているような単独の自己が存在しないことを示している』
人間の行動は、自由意志によって決められているのではなく、発火するニューロンのパターンに過ぎないというのは衝撃的です。
突き詰めると、大宇宙が創造されてから、人類が誕生して、日々の生活で個人が下す判断というのは、実は、既に事前にプログラムされていた結果に過ぎないという考えは、私が常日頃からぼんやりと考えていたことでした。
これは、以前、NHKで放映されていた「モーガン・フリーマンの時空を超えて」という科学番組の「運命か?自由意志か?」という回で放映されていた内容と同じです。
「もし運命が宇宙によってすでに決まっていたら?我々には自由意志があるのか?人が運命を決めることができないと考える研究者は多く存在する。自由意志はただの幻想だという説や、人間はすでに決まっているプログラムに従って行動しているという説もある。もしそれが本当だとすれば人間は機械と同じなのかもしれない。そしてこの答えは知るべきではないのかもしれない。。。」
量子力学の世界では、物質の存在は人間の観察によって影響を受けるといういわゆる「不確実性定理」というものがあり、人間の自由意思の存在を肯定するように思えますが、オランダの物理学者でノーベル物理学賞を受賞したトホーフトによると、量子力学より遥かにミクロの世界(プランクスケール)では、宇宙のすべての事象はすべて予め決まっているので、人間に自由意思はない、と主張します。
現在は、科学者の間でも、「運命派」「自由意志派」そして「限定的な自由意志派」に意見が分かれているそうです(【モーガン】 「運命か? 自由意志か?」まとめ)
4. 知識と意識の大いなる分離(第9章)
前述のように、人間の行動が自由意思ではないとなると、現代の経済と政治の制度はもはやあまり価値がなくなり、代わりに、新しい発想が生まれてきます。『経済と政治の制度は、集合的に見た場合の人間には依然として価値を見出すが、無類の個人としての人間には価値を認めなくなる』
個人の消費行動は、すべてアルゴリズムによって決定されるので、そこには個人の選択の自由は存在しないということですね。
政治や戦争についても、二十一世紀は、これまでのような人員(徴兵など)よりも、ドローンやロボット、サイバー攻撃という最先端のテクノロジーに依存する度合いが高くなると著者は予測しています。
『過去には人間にしかできないことがたくさんあった。だが今ではロボットとコンピューターが追いついてきており、間もなくほとんどの仕事で人間を凌ぐかもしれない』
近年良く話題になる、「AIが20年後には現在の人間の仕事の47%を奪い、格差は拡大する」という米国の報告書と同じ予測です。
何も単純労働作業に限定した話ではなく、銀行員、旅行業者、証券トレーダー、弁護士、裁判官、医師、教師まで幅広い分野の職業がAIに取って代わられる可能性があります。
『もちろん安泰な仕事もある。2033年までにコンピューターアルゴリズムが考古学者に取って代わる可能性は0.8%しかない。非常に高度な種類のパターン認識が必要とされる上に、大した利益を生まないからだ。だから企業や政府が次の20年間に考古学を自動化するために必要な投資をすることはありそうにない』
なかなか強烈な風刺ですね。インディ・ジョーンズはしばらくは我々の前から姿を消してしまうことはなさそうで安心しました。
『SF映画はたいてい、人間の知能と肩を並べたりそれを超えたりするためには、コンピューターは意識を発達させなければならないと決めてかかっている。だが、現実の科学はそれとは大違いだ』
これは大きな問題提起です。
『知能と意識ではどちらのほうが本当に重要なのか?』
著者は、おそらく知能は必須だが、意識はオプションに過ぎないと主張します。
知能しかない自動車が、知能と意識を兼ね備えた農耕馬に取って代わったように、将来の自動運転について著者は語ります。
『もし人間にタクシーだけでなくあらゆる乗り物の運転を禁じ、コンピューターアルゴリズムに交通を独占させたなら、すべての乗り物を単一のネットワークに接続し、それによって自動車事故が起こる可能性を大幅に減らせるだろう』
なるほど。。!
『やがてテクノロジーが途方もない豊かさをもたらし、そうした無用の大衆がたとえまったく努力をしなくても、おそらく食べ物や支援を受けられるようになるだろう』
『だが、彼らには何をやらせて満足させておけばいいのか?人は何かをする必要がある。することがないと、頭がおかしくなる。』
『彼らは一日中、何をすればいいのか?薬物とコンピューターゲームというのが一つの答えかもしれない』
無用の大衆が薬物とコンピューターゲームで一生を終える人生。。。こんな形で人類は堕落して、そんな間にAIが人類を撲滅するというのも空想の話ではなくなるかもしれませんね。。。
これは決して笑い事ではなく、これほど怖ろしい将来予測はありません。
Aiが現在の人間の仕事を奪うという例で、野球のスカウトに関して興味深いエピソードが紹介されています。
『2002年、低予算チームのオークランド・アスレチックスが、コンピューターアルゴリズムを使い、人間のスカウトが見過ごしたり過小評価したりしている選手を集めて、勝てるチームを作った。』
『この低予算のチームは、ニューヨーク・ヤンキースのような有力チームに引けを取らなかったばかりか、アメリカンリーグ初の20連勝も記録した。』
何と、こんなことが起きていたのですね。
ちなみに、現在はすべてのプロスポーツチームが、コンピューターソフトウェアにはるかに多くの投資をしているので、アスレチックスのような低予算チームが打ち勝つ可能性は低くなってしまったそうです。
スカウトの目利きがもはやコンピュータに勝てないのと同様、芸術の領域でも、コンピューターは人間を凌駕しつつあるようです。
『デイヴィッド・コーブはカリフォルニア大学サンタクルーズ校の音楽学の教授だ。彼はEMI(Experiments in Musical Intelligence)というプログラムを7年かけて開発したところ、たった1日でバッハ風の合唱曲を5000も作曲した』
『ある音楽フェスティバルで演奏するように手配した。徴収のなかには熱狂的な反応を見せる人々もいて、感動的な演奏として褒め称え、その音楽が心の琴線に触れたと興奮した様子で語った』
作曲や演奏という芸術でも、コンピューターアルゴリズムが人間を凌駕するようになったという戦慄的な事実です。
著者は面白いエピソードを紹介してくれます。
『ある企業が人工のスーパーインテリジェンスの第1号を設計し、円周率の計算のような無害の試験を行う。ところが、誰も事態を把握しないうちに、そのAIが地球を乗っ取って、人類を皆殺しにし、銀河の果てまで征服に乗り出して、基地の宇宙全体を巨大なスーパーコンピューターに変え、そのコンピューターがかつてないほど高い精度を追い求めて際限なく円周率を計算し続ける。なにしろそれが、自分の創造主によって与えられた神聖な使命なのだから。』
これはなかなか笑えますが、同時に背筋が凍るような恐怖も感じますね。
著者は個人主義の崩壊も予測します。
『遺伝子技術が日常生活に組み込まれ、人々が自分のDNAと次第に緊密な関係を育むにつれ、単一の自己というものはなおいっそう曖昧になる』
自分の健康管理も、遺伝子検査や血液検査、MRIのスキャン結果を巨大な統計データベースに基づいたアルゴリズムに任せたほうが良いのかもしれません。
遺伝子検査といえば、日本のベンチャー企業のユーグレナが、34%オフのキャンペーンをやっています(遺伝子解析アンケートに答えると50%オフ)。
ユーグレナの遺伝子解析サービス
遺伝子検査は、採取した唾から、ヒトゲノムをコードする23対の染色体のDNAが解析されて、癌や心臓発作といった病気の発症確率はもちろん、自分の祖先のルーツの情報まで提供してくれるものです。
遺伝子解析サービスは、ユーグレナ以外にも、MYCODE(DeNAライフサイエンス)、HealthData Lab(Yahoo!ヘルスケア)の2社も提供しています。興味のある方は受けるのも良いかと思います。
統計データベースの話については、インフルエンザの流行をどうやって知るか?という話が興味深いです。
『国民保健サービスの本部で誰かがそのデータを、他の何千もの医師から流れてくる報告と合わせて分析し、インフルエンザが流行しかけていると結論する。それまでには、たっぷり時間がかかる』
『グーグルなら、もの数分でやってのけられる。ロンドンの住民がメールやグーグルの検索エンジンに打ち込む単語をモニターし、それを病気の症状のデータベースと照合するだけでいい』
こうなると、個人のプライバシーなど犠牲にして、自分のメッセージへのアクセスを含めて公開するほうが良い社会になるのではとさえ思えてしまいます。
巨大データベースの話は、医学の話に留まらず、民主的な選挙のような自由主義の慣習も時代遅れになると著者は説きます。
『なぜなら、グーグルが、私の政治的見解でさえ、私自身よりも的確に言い表すことができるようになるからだ』
『もし自分に代わって投票する権限をグーグルに与えていたら、そんな事態(選挙活動で有権者を洗脳するような候補者を選んでしまうという愚行)は避けられただろう』
良くも悪くもドナルド・トランプを大統領に選出してしまった米国のジレンマですね。。。
フェイスブックのプロフィールと、過去に「いいね!」した記事や投稿の傾向から、その人の嗜好や宗教、年齢から性別、職業まで推測するプログラムがかつて話題になりました。
私もかつて英国ケンブリッジ大学が開発したApply Magic Sauseという自己診断プログラムを試したことがあるのですが、どうやら日本語の投稿やコメントに対応していないようで、フェイスブックとツイッターの過去の履歴と紐づけましたが、出てきた結果は年齢26歳、女性など正答率がかなり低いものでした。
Apply Magic Sauseの入力
診断結果
『この趨勢に恐れをなしたとしても、コンピューターマニアたちを責めてはならない。じつは、責任は生物学者たちにあるのだ。この流れ全体を勢いづかせているのはコンピューター科学よりも生物学の見識であるのに気づくことがきわめて重要だ』
『この展開に恐れをなしている人もたしかにいるが、無数の人がそれを望んで受け容れているというのが現実だ。すでに今日、大勢の人が自分のプライバシーや個人性を放棄し、生活の多くをオンラインで送り、あらゆる行動を記録し、たとえ数分でもネットへの接続が遮断されればヒステリーを起こす』
まさにその通り!
ブログ記事を投稿したり、フェイスブックやツイッターに投稿するというのは、プライバシーや個人性を放棄して、その代わりに得られる情報に価値を見出すということです。
NHKドキュメンタリー「個人情報が世界を変える」(2019年)に登場した大学教授のように、「プライバシーはすべてさらけ出して、アマゾンやグーグルには自分のことをできるだけ多く知ってほしい」と公言する人もいるほどです。
これまで個人情報というものは、公開したり他人と共有することは極力すべきではないという不文律のようなものがありましたが、果たして、将来の社会ではそのような考えに固執することがかえってマイナスになってしまうケースも予想されます。
そもそも生物学的な分離不可能な「個人」というものが否定されてしまった以上、一人に一つ個人情報を紐づけるという行為自体が無意味なものになるのではないでしょうか。
5. 意識の大海(第10章)
ここからはいよいよデータ教の前提となるテクノ人間至上主義の話になります。『匂いを嗅いだり、注意を払ったり、夢を見たりする能力が衰えたせいで、私たちの人生は貧しく味気ないものになったのだろうか?そうかもしれない。だが、たとえそうだとしても、経済と政治の制度にとってはは十分価値があった』
著者はその実例として、注意力を高めるアメリカ陸軍のヘルメットを引き合いに出します。
『私たちは首尾良く体や脳をアップグレードすることができるかもしれないが、その過程で心を失いかねない。けっきょく、テクノ人間至上主義は人間をダウングレードすることになるかもしれない』
と、テクノ人間至上主義に代わる新しい宗教の出現を予見します。
『最も興味深い新興宗教はデータ至上主義で、この宗教は神も人間も崇めることはなく、データを崇拝する』
ついに本著の最終章「データ教」に辿り着きました。
6. データ教(第11章)
宗教至上主義 → 人間至上主義 → テクノ人間至上主義を経て、人類はついにデータ至上主義に行き着いてしまいます。『チャールズ・ダーウィンが種の起源を出版して以来の150年間に、生命科学では生き物を生化学的アルゴリズムと考えるようになった。それとともに、アラン・チューリングがチューリングマシンの発想を形にしてからの80年間に、コンピューター科学者はしだいに高性能の電子工学的アルゴリズムを設計できるようになった。』
『データ主義はこれら二つをまとめ、まったく同じ数学的法則が生化学的アルゴリズムにも電子工学的アルゴリズムにも当てはまることを指摘する』
『音楽学から経済学、果ては生物学に至るまで、科学のあらゆる学問領域を統一する単一の包括的理論だ』
『データ至上主義によると、ベートーヴェンの交響曲第5番と株価バブルとインフルエンザウィルスは三つとも、同じ基本観念とツールを使って分析できるデータフローのパターンに過ぎないという』
まさに究極の統一理論です。
以前のブログ記事で、素粒子の世界の標準理論と一般相対性理論を含めた世の中のあらゆる現象をたったひとつの完璧な美しい数式で表す「神の数式」を紹介しましたが、それを上回るすべての事象の統一理論とは。。。あまりにスケールの大きな話です。
NHKスペシャル 神の数式 完全版
著者は、データ至上主義でのデータ処理という作業は電子工学的アルゴリズムに任せるべきと主張していますが、これはすなわち、将来は人類はコンピュータの管理下に置かれる運命ということでしょうか。。。
『この見方によれば、自由市場資本主義と国家統制下にある共産主義は、競合するイデオロギーでも倫理上の教義でも政治制度でもないことになる。本質的には、競合するデータ処理システムなのだ』
『資本主義が分散処理を利用するのに対して、共産主義は集中処理に依存する』
なるほど、データ至上主義の世界においても、分散vs. 集中という図式が成り立つわけですね。
『アメリカのNSA(国家安全保障局)は私たちの会話や文書をすべて監視しているかもしれないが、この国の外交政策が繰り返し失敗していることから判断すると、ワシントンにいる人は集めた膨大なデータをどうすればよいのかわかっていないようだ』
5年前に、 エドワード・スノーデンが米国NSAの大規模な情報監視活動について暴露した大スキャンダルと、その映画を思い出しました。
データ至上主義が到来しても、人間の英知がそれに全く追いついていないということであれば、著者の主張するとおり、データ処理は人間からコンピュータの管理下に置かれるべきなのかもしれません。
『もし本当に人類が単一のデータ処理システムだとしたら、このシステムはいったい何を出力するのだろう?データ至上主義者なら、その出力とは、「すべてのモノのインターネット」と呼ばれる、新しい、さらに効率的なデータ処理システムの創造だと言うだろう。この任務が達成されたなら、ホモ・サピエンスは消滅する』
ここでIoTというキーワードに繋がりました。
IoT産業は今後どうなるといった議論は尽きませんが、著者の大局的な観点からIoTを俯瞰すると、それは究極のネットワークによる業務効率化でもなければ、新しい価値創造でもなく、ホモ・サピエンスの消滅なんですね。。。
『情報の自由は人間に与えられるのではない。情報に与えられるのだ。しかもこの新しい価値は、人間に与えられている従来の表現の自由を侵害するかもしれない。』
エントロピーの法則ですね、情報も拡散をするのが自然の摂理ということです。こうなるともはや個人情報の保護とかプライバシーという概念は崩れる運命にあるのかもしれません。
『新しいスローガンはこう訴える。「何かを経験したら、記録しよう、何かを記録したら、アップロードしよう。何かをアップロードしたら、シェアしよう」』
ムムム。。。これはまさに私が日頃ブログを書いてアップロードしてシェアしている行為そのものではないですか!
『あなたがすることをすべて記録して、インターネット上に掲示してください。。。。こうしたことを全部すれば、すべてのモノのインターネットの偉大なアルゴリズムが、誰と結婚するべきか、どんなキャリアを積むべきか、そして戦争を始めるべきかどうかを、教えてくれるでしょう』
アルゴリズムは人間が設計したものですが、それ自身が進化を果たして、人間の頭では到底理解できないものになるのでしょう。
『データ至上主義は、自由主義でも人間至上主義でもない。とはいえ、反人間至上主義的ではないこてゃ特筆しておくべきだろう』
ここまで徹底的に奈落の底に突き落としておきながら、著者は最後にこのように述べて救いを差し伸べます。
著者は最後に、次の三つの問題提起をして本書を締めくくっています。
1.生き物は本当にアルゴリズムに過ぎないのか?そして、生命は本当にデータ処理に過ぎないのか?
2.知能と意識のどちらのほうが価値があるのか?
3.意識は持たないものの高度な知能を備えたアルゴリズムが、私たちが自分自身を知るよりもよく私たちのことを知るようになったとき、社会や政治や日常生活はどうなるのか?
コメント