失われた経済成長に直面した現代社会の進むべき道を、歴史の再検証、人口転換、宗教と宇宙、技術のイノベーション、そして「人間の持つ無限の欲望」という行動経済学に基づいて読み解く大著です。
ヨーロッパの歴史や社会についての深い知識を前提にした専門書なので、読み進めるのは容易ではありませんでしたが、人類学や社会学、宗教学といった古今東西の幅広い見解や歴史的事実を引用しつつ、独自の見解を展開する内容は、読み終えて「なるほど!」と実に腑に落ちるものでした。
経済至上主義から脱却して、ポスト工業社会をどのように捉えて幸福に生きてゆくべきか、本著はたくさんのヒントを与えてくれます。
1. ダニエル・コーエン
著者のダニエル・コーエンは、フランスの経済学者・思想家です。1953年のチュニジア生まれ。パリ高等師範学校経済学部長。『ル・モンド』論説委員。2006年にトマ・ピケティらとパリ経済学校(EEP)を設立しました。
ダニエル・コーエン(英語版Wikiより)
フランスを代表する経済学者でありながら、Wikiの日本語版がないように、日本での知名度は高くないようです。
一緒にパリ経済学校(EEP)を設立し、「経済界のロックスター」と評されるトマ・ピケティのほうは、対照的に、大ベストセラー『21世紀の資本』(2014)や、パリ白熱教室の番組などでも日本では馴染みが深いですね。
トマ・ピケティ(Wikiより)
私も、NHK Eテレで放送された「パリ白熱教室」(全5回、2015年1月放送)は楽しく観ました。
ダニエル・コーエン、トマ・ピケティの二人だけでなく、エステル・デュフロ(2019年のノーベル経済学賞受賞者)、エマニュエル・サエズ、ガブリエル・ズックマンなど、多くのフランス人経済学者が世界で注目されています(詳細はこちらの記事を参照)。
そもそも、経済学というのは欧米が世界の圧倒的中心となっており、非欧米系のノーベル経済学賞受賞者は、2019年までの84名中アマルティア・セン(インド)たった1名しかいません。
日本人経済学者というのは、世界レベルでは全く知名度がないのが現状です。日本は世界第3位の経済大国なのにこれは本当に残念なことです。
これは、日本では政府が経済学のアイデアを積極的に取り込まないことが原因とされています(こちらの記事を参照)が、経済学者など研究職のステータスが日本では低いのが関係していると私は思います。
話をダニエル・コーエンに戻します。
ダニエル・コーエンの著書は多数あり、代表作は『迷走する資本主義』(2009)、『経済と人類の1万年史から、21 世紀世界を考える』(2013)、『経済は人類を幸せにできるのか?』(2015)などがあります。
『経済と人類の1万年史から、21 世紀世界を考える』は、母国フランスでは、『銃・病原菌・鉄』を越える大ベストセラーとなったのですが、日本では知名度がそれほど高くないのは、著者の視点が欧州を中心とした歴史学、哲学、宗教学など日本人には馴染みの薄い分野だからではないかと思います。
4年前の著者のインタビュー記事がクーリエジャポンに掲載されています。
インタビュー記事によると、『閉じた世界と無限大の欲望』という原著のタイトルは、フランスで活躍したロシア出身の哲学者で科学史家アレクサンドル・コイレの著書『閉じた世界から無限の宇宙へ』に由来しているそうです。
原題の"Le monde est clos et le désir infini"の直訳「閉じた世界と無限大の欲望」のほうが本著の内容をよく表していますね。
人類が直面している有限性という難題のなかで、富だけではなく社会的な向上を目指すべきという著者の主張はこのインタビュー記事(有料)にコンパクトにまとめられています。
日本の経済学者や政財界の著名人たちの一般的な経済論とは次元の違う発想。
ダニエル・コーエンは、経済学者であり、また人類学者、思想家でもあります。未来の経済を予測するためには、彼のような幅広い知見が必要とされています。
以下、太字は本著からの引用です。
2. 経済成長なき進歩はありうるのか
先進国全体の経済成長率はここ30年でずっと低下傾向にある。フランスでは、3%、1.5%、0.5%と10年ごとに低下しており、アメリカではそれより高いものの、経済成長の大部分は所得上位10%が享受(所得上位1%が経済成長率の55%を享受)するという異常事態となっている。
1930年代にイギリスの経済学者ケインズは、「経済は限りなく成長する」と断言した。彼は、2030年には人々は1日3時間働くだけで暮らせるようになり、残りの時間は、芸術、文化、形而上学的な考察などに時間を費やすようになると予言したが、その予言は完全に外れてしまった。
ジョン・メイナード・ケインズ(Wikiより)
ケインズは、将来の経済的な繁栄を見事に予想したが、人間の欲望の驚くべき順応性を過小評価したからだ。
フランスは、18世紀の啓蒙思想に最も影響を受けた国家のひとつですが、その「啓蒙思想」というのが日本人にはピンと来ません。
私自身、啓蒙思想やアンシャンレジームという言葉からは、旧態依然とした宗教と身分制度に固められた体制から、啓蒙思想によってフランス革命が引き起こされたという程度の知識しかありません。
映画「レ・ミゼラブル」の世界ですね。
しかし、工業社会になっても、世の中は階級社会のままで、啓蒙思想の理想が実現したとはとても言えないものでした。
それどころか、ポスト工業社会で安心できる世の中になるはずが、逆に、経済的な不安定さが増大し、人々は将来に不安を抱くようになっています。
これはいったいどうしたことでしょうか?
インターネットに代表されるデジタル革命によって、経済は成長するどころか、人々は機械に雇用を奪われつつあり、経済はいっこうに成長しません。
その理由を、著者はこう指摘します。
第一に、労働側の問題で、雇用を奪われた人々の生産性が向上しなければならないのに、ただ単に手作業が工業化するだけに留まっている。
持続的な経済成長のためには、たとえば庭師は栽培する花の量および質を高める方法を学ぶ必要があるのだ(庭師の労働生産性が向上しなければならない)。
第二に、ポスト工業社会は真の意味で新し消費社会を作り出さなかった。スマートフォンを除けば、電球、自動車、飛行機、映画などに匹敵する革命が生み出されていない。
世の中がただ単に便利になって、効率的になるだけでは、経済成長は実現しないということですね。考えてみれば当たり前のことですが、普段このような意識はなかったので、なかなか鋭い指摘だと思いました。
著者は、情報革命よりも、遺伝子革命によるトランスヒューマン(人間改造)のようなものが経済成長をもたらすという根拠はないとしながらも、望みは捨てるべきではないと説いています。
序章「経済成長なき進歩はありうるのか」からいきない読み応えがありますね。
3. 世界を支配するに至った「文明化」の過程
農業によって人口が急増し、2050年には世界の人口は100億人に達し、その後は安定的に推移する見込みだ。
Newsweek日本版 2018年7/10号
過去1万年の人口増加をもとに計算すると、世界人口は2026年11月13日に無限大になって爆発すると以前は予測されていましたが、人口転換という、当初予測されていなかった奇跡によって出生率が急減したため、人類は人口爆発という崩壊から逃れることができました。
人口転換については後ほど詳しく触れます。
著者は、経済成長が中国など他の地域でなく、西洋で発展した理由を、哲学的、政治的、道徳的な優位性があったのか、「文明化」の過程(すなわち歴史)を振り返るべきと述べています。
農業、階級社会、東洋と西洋の発展、人口増加、エネルギー問題、貨幣、国家などさまざまな要素を経て、西洋では、(帝国が長期間続いた中国とは異なり)、法律と貨幣が経済をけん引するという流れから、産業革命が発生しました。
実は中国は、13世紀には西洋以上に栄えていました。西洋の飛躍のきっかけとなった3大発明(羅針盤、活版印刷と紙、火薬)は、すべて中国で発明されたものです。
西洋でルネサンスが勃興したのに対して、中国ではモンゴルの侵略という外的要因によって壊滅的な被害を受け、産業は大きく衰退してしまいました。
一方、西洋は、恒常的な戦争を乗り越えるための知恵として、公的債務などの金融資本主義を生み出し、大砲や航海術といった技術の発達とともに貿易も栄えたのです。
4. 閉じた世界から無限の宇宙へ
前述のアレクサンドル・コイレの著書のタイトルですが、具体的にはキリスト教と科学革命、つまり17世紀にガリレオとデカルトがきっかけに、「欧州の人々は宇宙が無限であると同時に真空であり、神は存在しないと認識した」ということです。科学革命の根底にあるのは、キリスト教の人間中心主義的な概念、つまり自然は「生き物」ではなく、それは人間が動かす機械仕掛けの時計のような存在という考え方である。
(「世界の歴史まっぷ」より引用)
科学革命は、ヨーロッパの精神に根源的な革命をもたらした。
人々の間では、神は正体不明で不可知な神々に格下げになり、人間そして人間だけが万物の尺度になった。『新たな哲学』は、義務の考えに基づく文明を、権利の考えに基づく文明に置き換えようとした。つまり、個人の道義心、批判、理性、人間、市民に関する権利に基づく文明だ。
われわれ日本人にとっては、近代資本主義の成立は、ヴェーバーの「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」(禁欲的プロテスタンティズムが結果的には金儲けを積極的に肯定するという考え)くらいしか馴染みがありません。
しかし、それだけでなく、科学革命が啓蒙思想に基づく「進歩」(=無限の経済成長)という新しい概念を生み出し、1世紀後の産業革命に繋がったという本著の主旨は、まさに目から鱗でした。
本著の第一部はこう締めくくられています。
資本主義の始まりには、富の蓄積という、柔軟性のあるプロテスタント精神の特異な偏執があったのではないか。。。だが、現代の経済成長は、時空をまたぐ人類史の長い熟成の産物だと考える方が正しい。
今後、時代の変化は世界中で加速する。そして猛スピードで走るこの列車に乗せられた人物は、有限な世界という新たな挑戦に、期せずして直面しなければならなくなった。
5. 失われた経済成長
デジタル革命の成果が経済成長という数値に表れない、先進国の経済成長は後退し続けている。生活はますます快適になり、われわれの周りには消費するモノがさらに増えた。だが、物質的な進歩のスピードは、二、三世代前の人々が経験したものより、ゆっくりになった。
1876年のグラハム・ベルの電話、1879年のエジソンの白熱電球とカール・ベンツの内燃機関、1895年にはリュミエール兄弟の映画が発明され、1901年には(太平洋を隔てた)無線通信に成功した。
20世紀中の数々の類まれなイノベーションと比較すると、今世紀中に世の中を揺るがしたのはスマートフォンだけかもしれない。
自家用飛行機は一般化せず、瞬間移動装置は開発されず、火星に入植したわけでもない。。。
これは現代の社会人には耳の痛い事実ですね。
いくら声高にデジタル革命だの、自動運転やクラウドテクノロジーだと唱えても、それらの変革は世界の経済成長(市民の所得増)にはほとんど貢献していないのです。
著者は続けます。
よいニュースとしては、インターネットが提供するサービスは無料であるため、消費者の購買力が奪われないことだ。悪いニュースとしては、インターネットは雇用をほとんど生み出さないことだ。
グーグル、フェイスブック、ツイッターの三社を合わせても、今日のどの自動車メーカーよりも雇用者数が少ないのだ。
6. 人口転換という「奇跡」
前述のとおり、2050年に世界の人口は100億人に達すると見込まれていますが、その後は大きく増加することなく、安定的に推移する見通しです。人口増加の激震は、世界中で起きた「静かな奇跡」によって収まった。合計特殊出生率が突如として低下したのである。
エジプトの例を取り上げると、1950年に7だった合計特殊出生率は、現在では3.4だ。この傾向が続くと、エジプトは2025年ごろに人口転換(合計特殊出生率が2.1を下回り、人口が減少し始める)が起きるだろう。
国連の人口予測によると、世界全体の人口転換は遅くとも2050年であり、その後、地球の人口はおそらく容赦なく減少し始めるだろうという。
世界と主要国の将来人口推計(社会実情データ図録より引用)
上の国連の資料では、世界の人口増加率は2100年でちょうど0%成長と予測されています。
日本の人口は、2100年には7000万人にまで減少(世界第11位)、2020~2100年の人口減少率では、ウクライナ、韓国に次いで世界ワースト3位のマイナス40.7%というショッキングな予測となっています。
ではなぜ人口転換が起きるのでしょうか?
それは、女性の出産に対する考え方が変化したためです。
女性の賃金が増加すると、女性は子供を産む役割にとどまる以外のやりがいを見つけるため、子供の需要が減ると推測するのだ。
著者はさらに指摘します。
女性の就労に関係なく、人口転換は、都市部だけでなく農村部でも確認できる。
国連の人口学者たちの説明は文化的な背景によるものだ。
世界中の女性は、テレビを通じて自分たちを魅了する理想像を得た。つまり、それは西洋諸国の生活様式であり、彼女たちにとって、そうした理想像は自由への渇望になった。
人口転換が起きる原因は、精神構造の変化であり、金銭的な誘因の変化ではない。
テレビの影響というのは、計り知れないものがあります。。。
また、保健衛生の進歩も人口転換に寄与する。
死亡率の低下により、子供をなくす心配が減り、合計特殊出生率も低下した。
確かにそうですね。これも納得です。
先進国では、経済成長の失速と格差社会拡大という二重の苦悩が蔓延しているが、世界全体では、世界経済は力強く成長し、世界格差は縮小するという正反対の動きが確認できる。
この視点からみると、第三世界が豊かになるのは、きわめてよいニュースだ。しかし、残念ながら本質的な点において、そうとも言えない。というのは、途上国が豊かになるのは、地球環境の保全と相容れないからだ。
世界人口は1800年から2010年にかけて7倍になり、エネルギー需要は40倍になった。
経済成長と環境問題の両立という難題は、以前ブログ記事で書いたユヴァル・ノア・ハラリの「ホモ・デウス」でも詳しく触れました。
【ホモ・デウス 下: テクノロジーとサピエンスの未来】果たして人に自由意思はあるのか??
『現代の経済にとって真の脅威は、生態環境の破壊だ。科学の進歩と経済の成長はともに、脆弱な生物圏の中で起こる。そして、進歩と成長の勢いが増すにつれて、その衝撃波が生態環境を不安定にする。』(ホモ・デウス下巻より引用)
世界中の誰もが、現在の経済至上主義と環境破壊の進行を「人類の行き過ぎ」であると認識しているにも関わらず、経済成長を邁進することを止めることができないのは、まさにこのためです。
環境保護と経済成長は、現代のテクノロジーでは両立できません。
どちらかが犠牲になる2者択一なのです。
経済成長で最も恩恵を享受するのは、経済的に恵まれている富裕層だけではなく、実は、膨大な数の貧困層の人々なのです。
貧困層と低所得者層に属する膨大な数の人々が、「裕福なアメリカ人」と同じ生活水準を望む限り、現在の経済成長(とそれに伴う自然環境破壊)を止めることはできません。
アマゾンの森林を伐採しているのは、富裕層ではなく、現地の貧しい農民です。
結局、この問題の根源は、人口増加にあるわけで、他の生物のなかで人間だけが人口増加を許容するのは、地球という限られたスペースしかない世界では限界があるのです。
地球温暖化に懐疑的な者たちは、冷めた見解を示す者さえいる。。。問題は、そのような態度が不可逆的なリスクを生み出すことだ。予想される気候変動が実際に起きたら、後戻りするのは不可能だろう。
地球温暖化の問題が経済と切り離せない理由は以下のとおりです。
地球の平均気温の上昇を(産業革命以前のレベルと比較して)2℃以内に抑える目標を達成するには、今から2050年までに排出量を500億トンから200億トンに削減しなければならない。
これは2.5倍の減少を意味する。2050年までに生産高が3倍になるなら(言い換えると、世界のGDPが年率3%で増加すると)、生産に含まれる二酸化炭素の排出量を7.5倍削減しなければならない。この目標を達成できるような技術は存在しないだろう。
90億人が暮らす世界において、社会的に正しく、環境面において持続性のある、所得が恒常的に増えるシナリオなど存在しない。
人口爆発は避けることができても、経済成長を維持することは不可能ということですね。
ではどうすれば良いか?
解決策を見つけるには、すべての社会の間で、共通の未来を構築するのだという信頼関係を築くことが、確固たる前提条件になる。
現在の世界情勢を見ると、各国が信頼関係を築くとはとても思えませんね。。。
7. 進歩を再考する
70年代から、社会は根本的に変化した。つまり、進歩という理想がなくなったのである。理想を失った現代社会では、人々はみな不安に怯えて生きています。雇用は不安定となり、右派と左派の二大政党は衰退し、有権者の投票による民主主義は、最貧層が最も投票率が高くなるなど機能しなくなりました。
私のような戦後ベビーブーム生まれの世代は、労働者階級の闘争や、70年代以前の社会に理想を抱いた世代を実体験しておらず、物心がついたときには社会はすでに理想を失っていました。
政治に対しても不信感しか抱かない環境で生まれ育ってきたので、一回り上の世代になる1953年生まれの著者の感覚はどうしても他人事のようにしか捉えることができません。
ルース・ベネディクトの『菊と刀』では、生け花を楽しむ繊細な心がある一方で、戦時中の数々の残虐さが存在するという、一見すると相容れない日本社会の二つの側面の根本原因をわかりやすく説明している。
日本人に馴染みのある『菊と刀』を引用して、著者は、全体主義と個人主義の共存の必要性を説いています。
「68年5月」はこの激変のクライマックスだった。大学、工場、家庭など、秩序社会に対する攻撃がいたるところで始まった。「68年5月」は階級に基づく権威に対して抗議した。
1968年5月の五月革命については、恥ずかしながら、まったく知りませんでした。
以下Wikiより引用します。
1960年代後半、欧米、日本を中心とした世界の若者は、学生運動によってお互いの理念、思想、哲学を共有し、激しい政治運動をおこなうことができた。これによって国の枠組みにおさまらない対抗文化(カウンターカルチャー)や反体制文化(ヒッピー文化)を構成するユートピアスティックな「世界的な同世代」という世代的な視座が加速度を増してゆく。以降、より自由に世界とコミュニケーションできるようになった学生は発言権を強めるようになり、フランスの現代化を推進させた。
それはロックや映画、ファッション[2]、アニメ、アートなどに影響を与え、その精神はヒッピー文化、パソコン通信などを通じ、コンピューターカルチャーへとつながってゆく。
(引用おわり)
1960年代の日本の一連の学園闘争は、日米安保条約改定やベトナム戦争への反対運動がきっかけですが、世界的な観点では、五月革命がそのルーツになっていることをこの本を読んで初めて理解しました。
反68年思想の台頭、そして家族、労働、祖国などに関する従来の価値観の巻き返しは、凄まじい勢いで広がった。もちろん、こうした時代の転換は、それまでにも何度もあったため、驚きではないかもしれない。革命と反革命によって刻まれる歴史の歩みは、一直線ではなく螺旋状に進む。
結局、行き過ぎた個人主義にはブレーキがかかり、全体主義との共存を模索する方向に動いたということですね。
読み進めるにつれて、全体主義と個人主義は、世俗と自主独立という肯定的な表現に置き換えられます。
世俗の価値観と自主独立の価値観を同時に高く評価する国としては、スウェーデン、ノルウェー、デンマークが挙げられる。旧共産主義国のグループ(中国、ロシア)は、世俗化レベルはきわめて高いが、自主独立のレベルはかなり低い。日本のケースは興味深い。日本は、世俗化の価値観は非常に高く、中国やスウェーデンよりも抜きん出るが、自己表現はフランスやイタリアと並び、中位でしかない。
社会は次第に世俗化するという仮説の例外がアメリカなのはよく知られている。アメリカは同じ経済学的な特徴をもつ国より、はるかに宗教色の強い国だ。
経済的な観点に加えて、文化的・宗教的な観点も変化の要因となっているようです。
8. 物質的な富から解放されない人間
ケインズは、人々が芸術や形而上学の問題に没頭できる豊潤な社会が到来すると予言した。ポスト物質主義社会の到来を告げたイングルハートは、ケインズのこの誤った論証を繰り返した。現実は1世紀前と同様に、富に対する心配は消えなかった。どうして人間は、富によって物質的な問題から解放されないのか。
ここから先は、読む前から展開が予想できたのですが、行動経済学における人間の「参照点」が移動するというプロスペクト理論、すなわち、損失回避の特徴である、「利得が増えていったときも、損失が増えていったときも、増えていくことによる感じ方は小さくなる」で説明がつきます。
本人が標準と考える状況と比較して、その人は幸福あるいは不幸なのだ。そしてその本人が置かれる状態がいずれ必ず標準になる。。。幸せになりたい願いはいつも変わらないため、幸福の追求は「快楽のランニング・マシーン」のようだ。われわれはどんなに努力しようとも、いつも出発点に位置し続ける。
プロスペクト理論については、以前ブログで行動経済学について書きました。
[行動経済学の実例] 生涯賃金やゲームスコアを最大化するナッジとは?
「イースタリンのパラドックス」は、こうした果てしない富の追求と幸せの虚しさを統計的に表している。フランスは50年前より2倍も豊かになったのに、50年前より幸せになっていない。
イースタリンのパラドックスに対するもう一つの説明は、他者と自分を比べるという人間の強迫観念にある。「近所の人に負けまいと見栄を張る」自家用車やテレビなどで、いまいましい近所の連中に遅れを取ってはならない。これがアメリカ消費者の行動基準だというのだ。
億万長者たちにどれぐらいの保有資産があれば「本当に気が休まるか」と尋ねると、彼らは全員、異口同音に自分たちの保有資産額に関係なく、現在の2倍と答える。
本当に説得力のある話ですが、これではいくら経済成長をしても、満足して幸せになることは決してないですね。
経済成長は、自己の精神および社会的な境遇から這い上がれるという、願いが常に更新される希望を全員に与えてくれるのだ。人々の不安を和らげるのはこの約束であって、約束が実現することではない。
比喩として適切かわかりませんが、このような人間独自の幸せに対する感応度は、マラソンのような持久系トレーニングを終えたときの達成感に共通するものがあります。
つまり、過酷なトレーニングを終えて、もうこれ以上苦しまずに済むという精神状態は、果てしなく幸せを感じる瞬間なのですが、それは、トレーニング中の苦しい状態が参照点(標準)となって、そこから劇的にラクになることで無上の喜びを感じることができるからです。
また、過酷なトレーニングを長時間続けられるのは、それが自分の意志によって継続しているもので、他人の指示で終わりが決まるのではなく、自分で決めた時間(約束された時間)だからです。
持久系スポーツをやっていて楽しいと感じるのは、別に自分を痛めつけることに快感を覚えるマゾであるからではなく、このように、満足度の参照点が低い状態から高い状態に極端に変化するからではないでしょうか。
マラソンのような持久系スポーツを実際に日課にしてみないと、この幸福感はなかなか理解できないと思います。
フロイトの考える最もよい解決法は仕事だ。「人生を過ごすコツは、個人を現実に強固に結びつけると同時に、仕事に集中することだ。仕事は、人間共同体という少なくとも現実の部分に、個人を確実に組み入れてくれる」。
仕事の満足感は、人生の喜びにとって主要な要素だ。幸せになるのは自己実現の現象であり、それは社会的なつながりを良好にする。そして、そうした人間関係は幸福の要素でもある。
9. 社会的族内婚
人々が自分と同じ出自の者たちとだけ交流するようになれば、不平等の問題に直面することは避けられる。というのは、人々は自分たちと似たような仲間としか集わなくなるからだ。生涯に関わる重大な決定は、人生においてせいぜい1つか2つだ。それらの決定で重要なのは、誰と結婚するのか、誰と住むのか、子供たちをどの学校で学ばせるのかという選択だ。
地域の交流についても同じことが言えます。
閉じた地区が形成され、そららの地区は互いに交流しなくなる。
似た者同士の仲間内で過ごすのが、ポストモダン社会の暮らしだとすれば、そうした暮らしでは、少なくとも、他者との競争や比較という重圧を減らせるかもしれない。
だが、話はそう単純ではない。。。
社会的族内婚には、別の惨事が待ち構えている。似た者同士でしか集えず、他の可能性を排除する世界では、似ていることが呪いになる。それは牢獄になり、この呪いの犠牲になる人々は、社会的な閉所恐怖症に悩まされる。
著者は、差異の排斥が、人種差別や外国人排斥につながる恐れがあると警告しています。フランスは多様な人種のるつぼ社会なので、この指摘は正しいのですが、日本のような単一民族国家では果たしてどうでしょうか。。。?
個人的には、海外留学やバックパッカーでの海外旅行、複数の企業での勤務など、異文化に積極的に関わってきましたが、50代を過ぎて自分の交際範囲もある程度落ちつくと、社会的族内婚でも十分ではと保守的になりがちなので、呪いの犠牲にならないように留意が必要ですね。
10. 経済成長を超えて
いよいよ本著の結論の部です。宗教のおもな役割は、社会から暴力を減らすことだ。経済成長は近代の宗教だとすると、人々は社会の一員になり、社会は人々を保護すると約束し、社会的な敵対関係は緩和される。
不況になって経済成長が消え失せると、暴力が再燃する。
ポスト工業社会を平穏に過ごすためのおもな要因の一つは、第一に、経済成長の不確実性に対して、「免疫をつける」ことだ。
デンマーク・モデルに倣い、勉強する、休暇年度を取得する、新たな職業を経験するなどの幅広い選択肢から権利を「引出す」のを認め、誰もが不安なく、無職という苦難の時期をしのげるようにするのだ。
現代の経済成長の原動力は、労働強化と気候変動のリスクであるため、失業と雇用不安、精神的なストレス、環境危機というトライアングルの地獄が待ち構えている。
企業内、人びとの間、国家間において、社会的なつながりを穏やかなものにするには、われわれは競争と妬みの文化を調節しなければならない。
個人の熱い思いと社会的な欲求が同じ目的に向かって一致すれば、人々の精神構造は変化する。
非常に難しいですが、人々の心境の変化によってのみ、経済成長を超えて環境問題や労働問題は解決できるということだと思います。
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