バッハ最晩年のもうひとつの傑作である「音楽の捧げもの」と同様に、(唯一の「2台のチェンバロのために」BWV第18曲を除いて)各声部には全く楽器指定がありません。
楽器の指定がないので、発売されているCDも、室内楽アンサンブルのものから、ピアノやチェンバロの独奏までさまざまです。
第一曲の主題(「フーガの技法の概要」より)
バッハの作品のなかでは、決して演奏頻度の高い楽曲ではないのですが、個人的には「フーガの技法」は、「音楽の捧げもの」「マタイ受難曲」と並んで、古今東西の音楽の最高傑作というだけではなく、全人類の遺産ではないかと考えています。
難解でとっつきにくい印象があるのか、リリースされている演奏も決して多くはないのですが、そのなかでピアノの演奏に注目して、名盤を比較試聴してみました。
0. フーガの技法
フーガの技法は、1740年代前半に作曲が開始され、J.S.バッハ最晩年となる1740年代後半に作曲と並行して出版が準備されました。以下Wikiより引用します。
出版譜では、対位法の技法の種類ごとに曲が配列されている。また、個々の曲は "Contrapunctus"(対位)もしくは"Canon"と名づけられている。
単純フーガ
1.コントラプンクトゥス I: 単一主題による4声のフーガ
2.コントラプンクトゥス II: 単一主題による4声のフーガ
3.コントラプンクトゥス III: 主題の反行形による4声のフーガ
4.コントラプンクトゥス IV: 主題の反行形による4声のフーガ
反行フーガ、装飾された主要主題とその反行形を含むもの
5.コントラプンクトゥス V: 多くの密接進行を含む。これは第6曲及び第7曲においても同じである。
6.コントラプンクトゥス VI 主題の縮小を含む、フランス風の4声のフーガ: この曲中に用いられているような付点のリズムは、バッハの時代にはフランス風として知られていた。
7.コントラプンクトゥス VII 主題の拡大および縮小を含む4声のフーガ: 拡大とは主題の音価を二倍に引き伸ばすこと、縮小とは主題の音価を半分に縮めることである。
2つの主題による2重フーガ及び3つの主題による3重フーガ
8.コントラプンクトゥス VIII 3声の3重フーガ。
9.コントラプンクトゥス IX 12度の転回対位法による2重フーガ
10.コントラプンクトゥス X 10度の転回対位法による2重フーガ
11.コントラプンクトゥス XI 4声の3重フーガ
鏡像フーガ楽譜に記されている音符を全て上下逆に読み替えても、音楽的な損失なしに演奏できるフーガのことである。
12.コントラプンクトゥス XII 4声。正立形および倒立形は、一般的に続けて演奏される。
13.コントラプンクトゥス XIII 3声。鏡像フーガであり、また反行フーガでもある。
カノンは、主題と応答の音程差や技法によって名前が付けられている。
14. 8度のカノン
15. 3度の転回対位法による10度のカノン
16. 5度の転回対位法による12度のカノン
17. 拡大及び反行形によるカノン
コントラプンクトゥスXIIIの編曲
18. Fuga a 2 (rectus), and Alio modo Fuga a 2 (inversus)
未完成のフーガ
19. 3つの主題による4声のフーガ(コントラプンクトゥス XIV)。おそらく4重フーガを意図して書かれたと思われる。3つ目の主題にバッハの名前をもとにした音形が見られる (B-A-C-H)。
当時の資料によると、出版譜のための銅板彫刻はバッハが死に至る前に始められた。しかし、すでに健康を害していたバッハが、試し刷りをもとにして校正を実際に行ったかどうかは疑わしいと考えられている(現在残っている初版の正誤表はバッハの息子の手によるものである)。
(引用おわり)
このなかでは、「11.コントラプンクトゥス XI 4声の3重フーガ」は、「フーガの技法」の最重要な曲だと個人的には考えています。
コントラプンクトゥスという名前は、あまり聞き慣れない言葉ですが、 「対位法」を意味し、1つの主題に対して曲ごとにさまざまな対位法的技術が用いられている事を示しています。
コントラプンクトゥス XI(Contrapunctus 11)は、「フーガの技法」の曲のなかでは7分以上とかなり長い曲です。4声のフーガ構成で、バッハのポリフォニー音楽の頂点に立つ曲のひとつです。
YouTubeを探してみると、コントラプンクトゥス XIの旋律ごとに色と図形で遷移をビジュアル化している映像を見つけました。
楕円が主旋律を表し、その他の旋律は菱形で表現されています。楽器はハープシコードとオルガンを使っているそうですが、コンピュータでどのような処理をしているのか、とにかくこんな便利なものを作ってくれる人がいて無料で使えるというのは、ネットであらゆる情報が入手できる便利な世の中ですね。。。
フーガとポリフォニーについて
私自身もよく混同して使ってしまうのですが、フーガが作曲の形式を指すのに対して、ポリフォニーは作曲の様式を指します。つまり、フーガはポリフォニーの一種です。
モノフォニー、ホモフォニー、ポリフォニー
音楽をモノフォニー、ホモフォニー、ポリフォニーの3つに分けると、モノフォニーとは、一つのメロディー(単旋律)の音楽、単一の楽器や唱歌などが相当します。
ホモフォニーは、一つのメロディー(主旋律)に伴奏の形でほかのメロディーが和音を作りながら展開する音楽です。主旋律以外の声部は従属した関係で、ほとんどの音楽がこのホモフォニーです。
ポリフォニーは、二声部から六声部までの各旋律が平等に独立して同時に流れる音楽です。
フーガの技法は、ポリフォニー音楽の頂点に位置付けられる音楽です。
バッハの曲を弾くのに、チェンバロかピアノかどちらがより適切かという議論は以前からありますが、「どちらでもよい」というのが多くの意見だと思います。
カンタービレ(歌うように)で歌う奏法ということでは、チェンバロよりピアノのほうが明らかに表現力では有利と思えますが、個人的には、歴史的に正しい楽器だからチェンバロで弾くということに捉われずに、ピアノであっても、演奏者がバッハを正しく弾くのであれば、何で弾いても良いのではと思います。
市販されている「フーガの技法」のCDは、古楽器やアンサンブルで演奏されているものが多いのですが、以下では、ピアノ演奏のCDのなかで、特にコントラプンクトゥス XIの演奏に注目して紹介します。
1. ピエール=ロラン・エマール盤
フランスのピエール=ロラン・エマールの演奏です。録音は2008年。
ピエール=ロラン・エマール盤
エマールは、メシアン「幼子イエスに注ぐ20のまなざし」に代表されるような、現代音楽の演奏が特に定評があります。
ここでは、バッハの古典に対するアプローチは、一貫して「中庸を貫く」というスタイルです。奇をてらった解釈や、テンポの変化といったものはほとんどありません。レオンハルトのピアノ版とでも言ったらよいでしょうか。。。
コントラプンクトゥス XIの演奏は、強弱メリハリの利いた硬質な演奏タッチのなかにも、バッハの敬虔な信仰心を讃えるような、この作品のレファレンス的な演奏です。
「フーガの技法」をピアノで演奏したCDのなかでは、録音も含めて、現時点でベスト盤ではないでしょうか。
2. ニコラーエワ盤
ロシアの名ピアニストのタチアナ・ニコラーエワの演奏です。録音は1967年。
タチアナ・ニコラーエワ盤
この2枚組CDには、「フーガの技法」とあわせて「音楽の捧げもの」から「3声のリチェルカーレ」と「6声のリチェルカーレ」がカップリングされています。
終始淡々と演奏していますが、肝要な部分の強弱はしっかりとつけて主題がしっかりと定位する技巧はさすがです。
演奏は、平たく言ってしまえば、「神の境地に達感している」というのでしょうか、とにかく神々しさに圧倒されてしまいます。
ピアノにも関わらず、演奏スタイルはむしろチャンバロのように抑揚が抑え気味で淡々と進みます。
自己主張の要素は極力排除されているように聴こえます。
それでいて、楽曲の締めくくりまで起承転結がしっかりと構成されており、気が付けば演奏が終わっているというのとは対極の、聴き終えたあとにズシンと心に響くものがあります。
コントラプンクトゥス XIの演奏は、特定の旋律を際立たせるような独特の奏法が印象的です。テンポは他の曲と比較するとやや速め、流れるように展開します。
3. グールド盤
もはや何の説明の必要もないグレン・グールドによる歴史的名盤です。録音は1962~79年。
グレン・グールド盤
第1曲~第9曲は、オルガンで演奏されています。第10曲~第15曲はピアノ演奏です。さまざまな理由で、オルガン・ピアノともに全曲が収録されることはありませんでした。
グールドにしかできない彼独特の世界観でバッハが解釈されています。
グールドのオルガン演奏の部分がハイライトされることが多く、後半のピアノ演奏の部分は、過去の収録アーカイブから発掘されてきたもののようで、音質はあまり良くありません。
コントラプンクトゥス XIの演奏は、オルガンではなく、ピアノ演奏によるものです(おそらく1979年6月トロントでのライブ収録、モノラル音源)。
スタートから鼻歌まじりのいつものグールド節です。主題の提示が終わると、いきなりテンポの緩急が激しくなり、グールドらしい演奏が展開されます。
おそらく多くの人にとってこのグールド盤「フーガの技法」は、彼の遺した膨大なバッハコレクションのなかではマイナーな位置付けであると思いますが、時代を超えた名盤であることは間違いないでしょう。
4. ジョアンナ・マグレガー盤
イギリスのコンサートピアニスト兼指揮者兼作曲家のジョアンナ・マグレガーによる演奏。リリースは2011年(録音は1995年)。
ジョアンナ・マグレガー盤
ジョアンナクレアマクレガーCBEは、英国のコンサートピアニスト、指揮者、作曲家、フェスティバルキュレーターです。彼女は王立音楽アカデミーのピアノの長であり、ロンドン大学の教授でもあります。現在、ダーティントンホールのインターナショナルサマースクール&フェスティバルの芸術監督を務めています。
(引用おわり)
このCDは、フランス組曲が名演という定評ですが、私はフーガの技法のほうを聴いた途端に、完全に虜になってしまいました。
こんなふうにバッハを演奏するピアニストがいるとは。。。
これは間違いなく掘り出し物だと思います、というか、そんな表現は不適切で、個人的には多くの「フーガの技法」のCDのなかでも特筆すべき名盤だと思います。
コントラプンクトゥス XIの演奏は、かつてないほどスローかつピアニッシモで始まります。そこから徐々に抑揚が激しくなるのですが、これほど感動的な演奏はないのではと思えるほどの盛り上がりを見せます。
普通は7分くらいの演奏時間ですが、マグレガーの演奏はなんと10分42秒!!
Joanna MacGregor plays Bach's The Art of Fugue BWV 1080:
Contrapunctus 11
バッハの演奏としては邪道なのかもしれませんが、音楽性という点では、おそらく比肩するものがないのでは?
このCDは廃盤になったあと復刻して現在は入手困難のようですが、演奏はAmazon MusicやSpotifyでも聴けるので、ぜひ一度聴いてみていただきたいです。
5. シャガジェグ・ノスラティ盤
シャガジェグ・ノスラティはウクライナのピアニストです。1989年ドイツのボーフム生まれ。ハノーファー音楽演劇大学でアイナー・ステーン=ネクレベルク、クリストファー・オークデン、エヴァ・クピークなどに師事。シフやレヴィンも称賛する期待のピアニストです。本CDは彼女のデビュー・アルバム。2005年録音。レコード芸術 2010年10月号 特選盤。
ノスラティ盤
ノスラティの演奏は、マグレガーと対極で、超絶技巧的な技術を持ち合わせていることを彷彿とさせて終始スピーディーです。
コントラプンクトゥス XIの演奏は、4分59秒。マグレガーの2倍以上のスピード演奏です驚きます。が、もちろん大味になることなく、細部まで計算された緻密な演奏です。
瑞々しい溌剌とした演奏で好感が持て、個人的にはこのようなバッハは大変好みです。
(2024年11月25日 追記)
アンジェラ・ヒューイット盤を追加しました。
6. アンジェラ・ヒューイット盤
「当代一のバッハ弾き」と評価の高いアンジェラ・ヒューイット盤です。生まれはグレン・グールドと同じカナダ(現在はイギリス在住)、ハイペリオン・クラシックのレーベルからはバッハの作品集も出しています。
2013年録音。2015年レコードアカデミー賞受賞盤。
コントラプンクトゥス XIの演奏は、7分03秒。ちょうどマグレガーとノスラティの演奏の中間くらいのテンポ。スタッカートを強調してダイナミックレンジの広いドラマチックな表現。
グールドのバッハのように、今後のレファレンスとなる演奏かもしれません。
以上、J.S.バッハ最晩年の大傑作 [フーガの技法] ピアノ演奏の名盤ベストでした。
[フーガの技法] は、「音楽の捧げもの」と同様、間違いなくバッハの大傑作だと思うのですが、難解さが敬遠されてか、ピアノでは演奏される機会が少ないのが残念です。
個人的な嗜好では、アンドラーシュ・シフが録音してくれたら、と願っていますが果たしてどうでしょうか。。。
[フーガの技法] は、「音楽の捧げもの」と同様、間違いなくバッハの大傑作だと思うのですが、難解さが敬遠されてか、ピアノでは演奏される機会が少ないのが残念です。
個人的な嗜好では、アンドラーシュ・シフが録音してくれたら、と願っていますが果たしてどうでしょうか。。。
Marta Czechという若い方の演奏が私は好きです。
返信削除Youtubeのみですが、
これは良い演奏ですね!録音も秀逸。ポーランドのピアニスト。
削除https://www.youtube.com/watch?v=p1Sq1HOYglU