[総力戦研究所とは] 30代のエリート模擬内閣が予測した日本必敗のシナリオ(『昭和16年夏の敗戦』/ 猪瀬直樹)

 

『昭和16年夏の敗戦』を読みました。


元東京都知事だった猪瀬直樹が、1983年に発表した著作です。



『昭和16年夏の敗戦』(猪瀬直樹著)

日本が太平洋戦争に敗れたのは昭和20年の夏ですが、本著は、そのちょうど4年前、つまり日米開戦直前の、昭和16年夏の話です。


本著は、総力戦研究所で進められたシミュレーションの内容と、大日本帝国政府が開戦という破滅に向かってなぜ突き進んでしまったのか、克明に綴られています。


総力戦研究所というのは、昭和16年に、平均年齢33歳の若きエリート35名で結成された、政府直轄のシンクタンクを指します。


模擬内閣が、米英相手の総力戦机上演習(シミュレーション)を重ねて出した戦争の経過は、実際とほぼ同じ、つまり「日本必敗」という予測でした。


にも拘わらず、日本は開戦へと突き進みました。


当時の「空気を読む」という政治の風潮は、現代社会に未だ深く浸透しており、何も変わっていません。


また、開戦へと突き進んでしまった当時の政治背景についても、現代では歪曲されていること、自分自身も断片的な理解しか持ち合わせていなかった反省など、いろいろと考えさせられる内容でした。


総力戦研究所を中心に、以下に書評をまとめてみました。

1. 昭和16年夏の敗戦

私が最初に総力戦研究所を知ったのは、『失敗の本質 - 日本軍の組織論的研究』((戸部良一、寺本義也、鎌田伸一、杉之尾孝生、村井友秀、野中郁次郎、1984年、以下『失敗の本質』)という書籍を読んだのがきっかけでした。


『失敗の本質』は、太平洋戦争で日本軍が敗戦した原因を追究する失敗学の本であり、旧日本軍の組織特性としての組織論として優れていることから、ビジネススクールでも頻繁に引用される名著です。

『失敗の本質』は、ノモンハン事件から、太平洋戦争の緒戦(ミッドウェー作戦、ガダルカナル作戦、インパール作戦、レイテ沖海戦、沖縄戦)まで幅広くカバーしているのですが、総力戦研究所については、第5章「総力戦研究所とは何だったのか」で紹介されています。

一方、本著『昭和16年夏の敗戦』は、総力戦研究所の設立から、参加メンバーの動向、そして模擬内閣が「日本必敗」という予測を立てた経緯に至るまでの開戦前に絞って史実を明らかにしています。

総力戦研究所での模擬内閣によるシミュレーションと同時並行で、当時の近衛内閣から東条内閣と、大本営、そして昭和天皇が、如何に開戦に向けて突き進んでしまったか、その過程を見事に解説しています。

総力戦研究所が「日本必敗」を見事に予測できたのは、メンバーが組織のしがらみに束縛されることなく、自分の出身省庁や企業の極秘情報を自由に参照できたことが大きかったようです。

しかし、シミュレーションの要となる石油の備蓄量については、陸軍(120万トン)も海軍(650万トン)も厳秘中の機密データだったようで、正確なデータ入手は困難を極めました。

その結果が、初めに結論ありきの、「石油の備蓄量は、開戦3年目まではなんとか持ちこたえる」という、現実とは乖離した予測に繋がりました。

南方作戦遂行の場合の石油需要バランス試算表
(本文より引用)

南方作戦というのは、南方(インドネシア)の油田地帯を武力占領することを意味しています。

この南方油田の占領を根拠に、石油残量が3年目まで「残る」(=戦争遂行能力あり)という企画院の誤った予測が開戦への決定打となってしまいます。

10月23日から11月1日まで続いた大本営・政府連絡会議(そして11月5日の御前会議)で日米開戦が決定されました。

開戦後、南方油田の武力占領には日本軍は成功して、年産500万トンもの産油量を確保しましたが、その石油を運ぶタンカーはことごとくアメリカ潜水艦の餌食となり、ほとんど日本に到着することはありませんでした。

このシナリオは、総力戦研究所の想定どおりでした。

ちなみに、本著は、『昭和16年の敗戦』というタイトルで1991年にテレビドラマ化(主演:中村雅俊、神田正輝)されていたのですね。

ぜひ観たいのですが、残念ながらDVD化はされていないようです。

2. 総力戦研究所

『昭和16年の敗戦』の軸となる総力戦研究所について(以下はWikiから引用)。

総力戦研究所(そうりょくせんけんきゅうじょ)とは、大日本帝国において1940年(昭和15年)9月30日付施行の勅令第648号(総力戦研究所官制)により開設された内閣総理大臣直轄の研究所である。

この機関は国家総力戦に関する基本的な調査研究と“研究生”として各官庁・陸海軍・民間などから選抜された若手エリートたちに対し、総力戦体制に向けた教育と訓練を目的としたものであった。1945年(昭和20年)4月1日付施行の勅令第115号により廃止。

概要
本来の目的は「国防」という問題について一般文官と軍人(武官)が一緒に率直な議論を行うことによって国防の方針と経済活動の指針を考察し、統帥の調和と国力の増強をはかることにあったとされている。総力戦研究所構想は企画院第一部長の沼田多稼蔵の発案だったとされ、内閣情報局分室跡で開所されることとなった。

1940年(昭和15年)10月1日、企画院内で総力戦研究所の開所式が執り行われた。初代所長に星野直樹、所員には渡辺渡(陸軍大佐)、松田千秋(海軍大佐)、奥村勝毅(外務省東亜局第二課長)、大島弘夫(内務省外事課長)、前田克巳(大蔵省主計局調査課長)、寺田清二(農林省蚕糸局長)、岡松成太郎(商工省官房統計課長)らが最初に充てられた。同年12月3日、研究所主事に岡新(海軍少将)、技本総務部長兼任所員として藤室良輔[2](陸軍少将、1941年10月に同所主事)が加わった。

1941年4月1日に入所した第一期研究生は、官僚27名(文官22名・武官5名)と民間人8名の総勢35名。その後4月7日になって、皇族・閑院宮春仁王(陸軍中佐。当時、陸軍大学校学生)が特別研究生として追加入所した。一期生は1942年(昭和17年)3月まで研究・研修を行い卒業となった。

昭和16年3月1日、首相官邸での総力戦研究所入所式
(出典:1983/8/11毎日夕刊

1942年4月に第二期生39名を、1943年(昭和18年)には第三期生40名を受け入れている。その三期生は、同年12月15日で繰り上げ卒業。これ以降、総力戦研究所は開店休業状態となった。

机上演習
第一期生の入所から3か月余りが経過した1941年7月12日。2代目所長飯村穣(陸軍中将)は研究生に対し、日米戦争を想定した第1回総力戦机上演習(シミュレーション)計画を発表。同日、研究生たちによる演習用の青国(日本)模擬内閣も組織された。

模擬内閣閣僚となった研究生たちは7月から8月にかけて研究所側から出される想定情況と課題に応じて軍事・外交・経済の各局面での具体的な事項(兵器増産の見通しや食糧・燃料の自給度や運送経路、同盟国との連携など)について各種データを基に分析し、日米戦争の展開を研究予測した。その結果は、「開戦後、緒戦の勝利は見込まれるが、その後の推移は長期戦必至であり、その負担に青国(日本)の国力は耐えられない。戦争終末期にはソ連の参戦もあり、敗北は避けられない。ゆえに戦争は不可能」という「日本必敗」の結論を導き出した。これは現実の日米戦争における(原爆投下以外の)戦局推移とほぼ合致するものであった。

この机上演習の研究結果と講評は8月27・28日両日に首相官邸で開催された『第一回総力戦机上演習総合研究会』において時の首相近衛文麿や陸相東條英機以下、政府・統帥部関係者の前で報告された。時に対米英開戦3ヶ月前のことである。

研究会の最後に東條は、参列者の意見として以下のように述べたという。

諸君の研究の労を多とするが、これはあくまでも机上の演習でありまして、実際の戦争というものは、君達が考えているような物では無いのであります。日露戰争で、わが大日本帝国は勝てるとは思わなかった。然し勝ったのであります。あの当時も列強による三国干渉で、やむにやまれず帝国は立ち上がったのでありまして、勝てる戦争だからと思ってやったのではなかった。戦というものは、計画通りにいかない。意外裡な事が勝利に繋がっていく。したがって、諸君の考えている事は机上の空論とまでは言わないとしても、あくまでも、その意外裡の要素というものをば、考慮したものではないのであります。なお、この机上演習の経緯を、諸君は軽はずみに口外してはならぬということであります。(表記は現代式に改め)

(引用おわり)

総力戦研究所が、戦前に「日本必敗」の予測を立てていたことが世間に知れ渡るようになったのは、戦後38年経った1983年の毎日新聞の報道がきっかけだったようです。


「大津賀伝蔵の戦時中の沖縄」というサイトには、総力戦研究所一期生の集合写真が掲載されています。

総力戦研究所一期生の集合写真

以下は総力戦研究所一期生の名簿です(市川新(2009) 「総力戦研究所における国家戦略研究ゲーミングの演練者」 『流通經濟大學論集』 43(4), 181-189, 2009-03exit より引用)。

総力戦研究所 第1期研究生名簿[7]
社会区分氏名年齢教育歴、昭和年代表母体、職位演練役割演練後主要職歴備考
行政芥川治30-東大法、5鉄道省事務官鉄道大臣四国鉄道局長一高、5年門書記会計院院長
民間秋葉武雄30-東大法、10同盟通信社員情報局総裁共同通信政治部長
行政石井30-東大法、9拓務省事務拓務大臣パラグアイ大使一高、9年管理局
行政今泉兼寛30-東大法、9大蔵省事務大蔵大臣横浜税関長水戸高、9年管財局
軍事岡村30-九大法文、7陸軍主少佐陸軍次官戦死福岡
行政岡部史郎30-東大法、7衆議院書記内閣書記官長北海道開発部長水戸高、7年内務省秋田
行政川口正次郎30-東大法、5内務省事務情報局次長警保局外事課長松本高、6年大阪府巡査
行政清井正30-東大法、7事務大臣事務次官四高、7年穀部
民間窪田角36東大法、2産業組合中央庫参事総理大臣農林中央金庫常務理事
学界倉沢剛37東京文理大教、8東京女子高等師範学校教諭文部次官東京教育大学教授 (教育史)
行政酒井30-東大法、9大蔵省事務企画院次長庫副総裁
行政佐々木33東大経、5日本銀行書記日本銀行総裁日本銀行総裁
軍事志村30-37海軍少佐海軍大臣支那方面艦隊参謀中佐
軍事白井30-陸士43期
陸大51
陸軍大尉陸軍大臣綜合計画局参事官中佐陸士43期恩賜、大本営参謀
行政玉置敬三34東大法、5商工省事務企画院総裁賠償実施局長姫路高、5年商務局、通産次官、東芝社長
軍事武市義雄30-機38期海軍機関少佐海軍次官海上自衛隊海将補横須賀地方総監部副総監
行政千葉31東大法、7外務省事務外務大臣ブラジル大使一高、 7年英国書記
行政丁子尚37東大法、2文部省事務文部大臣名古屋帝事務局長二高、2年嘱託、国立大学協会事務総長
行政中西久夫30-東大法、4内務省地方事務企画院次長車両工業株式会社社長
行政成田乾31法、7亜院嘱託亜院総務長官支那方面軍済南特務機関
行政野見山勉30-東大法、9商工省事務商工大臣化学肥料課長三高、9年貿易局、中小企業信用保険公庫理事
行政林馨30-東大法、7外務省上海大使館三等書記外務次官兼・情報局次長メキシコ大使一高、7年米国書記
学界原種行30-東大文、7東京高等学校教授大政翼賛会副総裁岡山大学教授科学史)
行政博雄33東大法、7朝鮮総督府事務朝鮮総督勤労部調整課長9年逓信書記
行政福田30-東大法、9内務省事務警視総監佐賀警察部長江高、9年大阪警部補
民間保科礼一30-東大法、4三菱鉱業株式会社社員企画院次長三菱経済研究所常任理事
民間前田勝二30-東大経、7日本郵船株式会社社員企画院次長日本郵船株式会社店長
三渕乾太郎30-東大法、6東京民事地方裁判所判事司法大臣兼・法制局長東京高裁判事
行政川克30-東大法、7厚生省事務厚生大臣引揚援護院庶務課長五高、7年内務省社会局、束労基局長
行政宮沢次郎34東大法、8満州国大同学院教官対満事務局次長トッパンムーア社長
行政森巌30-東大法、9逓信省事務逓信大臣運局課長浦和高、9年小石川郵便局、船員局長
行政矢野外生30-東大法、8事務企画院次長熊本局総務部長一高、8年畜産局、東京林局長
行政吉岡恵一32-東大法、8内務省事務内務大臣静岡検察部長一高、8年地方局、人事院事務総長
皇族閑院宮春仁王38陸士36期
陸大44
陸軍大学校教官中佐演練不参加(聴講生)陸軍少将皇籍離脱(閑院純仁)
民間千葉幸雄30-東大経、9日本製鉄株式会社社員演練不参加(7月退所)東部36部隊関特演臨時召集
軍事山口敏寿30-陸大50陸軍少佐演練不参加(7月退所)関東軍参謀転出

以下の表は『失敗の本質』からの引用です。


官僚27名(文官22名・武官5名)と民間人8名の総勢35名。全員が31歳から35歳という年齢で、日本の将来を嘱望されたエリート中のエリートでした。

この名簿のメンバーは、当時の日本において最良にして最も聡明な(ベスト&ブライテスト)と呼べる35人だったのです。

実際、模擬内閣で日本銀行総裁役を担った佐々木直氏は、戦後に日本銀行総裁に就任しています。

また、企画院総裁役を担った玉置敬三氏は、通産省で事務次官を務めた後、土光敏夫氏の後継として東芝社長に就任しています。

さらに、農林大臣役の清井正も、事務次官まで昇進したのち、農林漁業金融公庫総裁をつとめました。

以下は、総力戦研究所設立の経緯です。

総力戦研究所が、内閣直轄の研究機関として設立された経緯に関しては、本著に詳述されています(以下太字は本文より引用)

総力戦研究所の前史は、実は昭和5年1月、一人の青年将校(辰巳栄一)がロンドンに渡るところから始まっていた

とあります。

PRDC(Passed Royal Defense College)、つまり国防大学卒業生のことです。

この国防大学というのは、戦後、イギリス世界戦略研究所と名称を変えて広くその名が知られるようになった

このPRDCマークがついている人物は、軍人に限らず、貴族、官僚、学者、実業家と各界にわたり、いずれも将来を嘱望されている成長株ばかりだという点だ

このイギリスの国防大学のコンセプトが、総力戦研究所の設立につながるのですが、そこには、近代の戦争の、武力戦だけではなく、思想、戦略、経済などの各分野に亘る全面的国家総力戦という特徴を反映するために、内閣総理大臣直轄の組織として位置づけられたのです。

また、このような新組織の設立時には古今東西よくある話ですが、既存組織との業務内容の重なりや役割分担についての問題が噴出します。

本著でも

総力戦研究所の性格をつきつめていけば、既設の企画院との業務内容と重なっていく懸念があった

とあります。

企画院は各省庁と軍部、民間機関から「必要なる資料を蒐集し、これを一定の着想のもとに整理集成し」「随時これを必要なる各庁に供給」することを目的としている

それに対し、総力戦研究所は「企画院に与へられたる資料に基き総力戦の見地より更に検討を進め総力戦に関する原理を研究する」ことだという

なかなか苦肉の策だったようですが、この定義で、官僚的縄張り意識は回避されたようです。

関東軍参謀長の飯村穣陸軍中将が、総力戦研究所長となって、陸軍には所長人事を確保したので、事足れりという考え方があったのではないだろうか

また、陸軍出身の所長に対し、海軍は岡新少将が副所長に就任してバランスを取っている

陸軍と海軍のせめぎ合いもさることながら、軍組織としては、総力戦研究所設立に対して複雑な立ち位置にあったようです。

特に、海軍は総力戦研究所に期待していた面もありました。

中国大陸で泥沼化した戦争を続ける陸軍とちがって海軍がいざ戦争というときは「対米英」と戦わざるを得ない・とくにアメリカの底知れぬ国力に対して日本はいったい勝つ見込みはあるのか

では、総力戦研究所が、果たして唯一の戦略策定組織だったのでしょうか?

3. 戦争経済研究班(秋丸機関)

総力戦研究所についていろいろ調べていると、陸軍に、戦争経済研究班(秋丸機関)という研究機関があったことを知りました。

通称、秋丸機関と呼ばれています(以下Wikiより引用)

秋丸機関(あきまるきかん)とは、ノモンハン事件後の1939年9月に、総力戦を経済面から研究するために、日本の陸軍省経理局内に設立された研究組織。正式名称は「陸軍省戦争経済研究班」、対外的名称は「陸軍省主計課別班」。

概要
1939年(昭和14年)9月、ノモンハン事件や第二次世界大戦の勃発といった国際的な変動の中で、総力戦を経済面から研究するために、陸軍省軍務局軍事課長の岩畔豪雄大佐が中心となって陸軍省経理局内に研究班が設立された。正式名称は陸軍省戦争経済研究班であり、目立たないように陸軍省主計課別班という名称が使われ、作成した資料のほとんどは陸軍省主計課別班の名前で提出された。岩畔大佐の意を受けて秋丸次朗中佐が率いたので秋丸機関とも呼ばれた。

秋丸機関は仮想敵国および同盟国の経済戦力を詳細に分析して最弱点を把握するとともに、日本の経済戦力の持久度を見極め、攻防の策を講じるために、ブレーンとして経済学者を集め、そのほかに各省の少壮官僚、満鉄調査部の精鋭分子をはじめ各界のトップレベルの知能を集大成し、英米班(主査・有沢広巳)、独伊班(主査・武村忠雄)、日本班(主査・中山伊知郎)、ソ連班(主査・宮川実)、南方班(主査・名和田政一)、国際政治班(主査・蠟山政道)を立ち上げた。

各班15名から26名ぐらいで総勢百数十名から二百名程度の組織で、有沢広巳が実質上の研究リーダーであった。潤沢な予算(臨時軍事費特別会計)を使って、各国の軍事・政治・法律・経済・社会・文化・思想・科学技術等に関する内外の図書、雑誌、資料、約9000点を収集し、それらを整理・分析して、各国経済抗戦力判断に関する「抗戦力判断資料」、個別の経済戦事情調査の「経研資料調」、外国書和訳の「経研資料訳」などの資料を作成した。

独ソ戦開始直後の1941年(昭和16年)7月、秋丸機関はこれらを集大成して陸軍上層部に報告を行ったとされる。その内容は「英米合作の本格的な戦争準備には一年余りかかる一方、日本は開戦後二年は貯備戦力と総動員にて国力を高め抗戦可能。この間、英国の属領・植民地への攻撃、インド洋(および大西洋)における制海権の獲得および潜水艦による海上輸送の遮断の徹底によって、ドイツと協力して輸入依存率が高く経済的に脆弱な英国を屈服させ、同時に英蘭等の植民地である南方圏(東南アジア)を自足自給圏として取り込んで抗戦力を強化し、米国の継戦意思を失わせて戦争終結を図る」という対英米戦争戦略を示す一方、イギリス屈伏の鍵を握るドイツの経済抗戦力については下記のように悲観的な見方を示した。秋丸機関の結論は玉虫色のものであった。

1942年12月に秋丸機関は解散し、その研究機能は総力戦研究所に移管された。

(引用おわり)

『昭和16年夏の敗戦』には、私の記憶している限りでは、この秋丸機関には触れられていません。

秋丸機関について詳しく調査した『日米開戦 陸軍の勝算』(林 千勝著、2015年)という書籍があります。


NewsPickの「【あの戦争】30代は開戦前に「敗戦」を予測 歴史に埋もれた「総力戦研究所」から学ぶこと」という記事のコメント欄に、大山 敬義さんが以下のようにコメントされています(以下引用)。

しかし、同じ時期、戦争を知り尽くした陸軍省直轄の戦争経済研究班(通称秋丸機関)が、全く同じ結論を出していたことはあまり知られていません。

こちらも国策に合致しないということで、その報告が握りつぶされたのは同じなのですが、総力戦研究所と違うのは、もし本当に開戦した場合、どうしたら勝利の可能性が高くなるかという報告も同時に行っていたことです。
その作戦は以下の通りだったと言われています。

1)ソ連との直接対立を避け、背後を安定させる
2)主敵をイギリスに定め、緒戦でインドネシア、マレー半島を手中に収めて継戦に必要な資源を確保する
3)東南アジア、インド方向に侵攻し、援蒋ルートを遮断して蒋政権を屈服させ、戦線から脱落させる。
4)東南アジア各地の欧米植民地を独立させ、同盟国を増やし、自存自衛の戦いを支援する
5)最強の敵であるアメリカとは極力戦わず、漸次消耗させながら、できるだけ補給が可能な防衛圏にひきづり込んで戦う
6)その間にドイツと挟撃してイギリスを降伏させ、イギリスの仲介でアメリカとの講和を目指す

秋丸機関は日米の経済格差は約20倍と計算しており、この間日本が国力を維持できる期間、つまりイギリスを屈服させアメリカを講和に引っ張り出すまでのタイムリミットは2年間あまりと計算していました。
また、ドイツが短期間でソ連を倒すことが、戦争の大勢を決する要素だと見抜いており、それができなかった場合1年から1年半で英米の戦力がドイツを上回ると報告しています。

あとの展開から見て、アメリカの建艦能力をやや低く見ていたことを除けば、秋山機関の報告は勝てずとも、最大の条件で講和に持ち込むための戦略としてはかなり優れたものだったと言えます。

しかし現実にはこの策は採用されず、海軍が推す開戦の第一撃でアメリカの主力戦力を叩き、有利な条件で講和を目指すという作戦、つまり真珠湾攻撃が採用されることとなった訳です。

歴史にIFを問うことは無意味なことですが、もし陸軍案が採用されていたとしたなら、太平洋戦争の様相は全く違うものになっていたことでしょう。

(引用おわり)

つまり、一般世間では、太平洋戦争は、勝ち目のない負け戦を、陸軍が暴走して引き起こしたと考えられていますが、秋丸機関の報告が事実だとすると、陸軍も徹底した分析を行っていたことになり、むしろ、真珠湾攻撃で米国に奇襲攻撃で宣戦布告をした海軍(山本五十六)こそが、戦略シナリオを無視して暴走したという全く逆の話となりますね。

事実は小説よりも奇なり。。。

ちなみに、総力戦研究所のシミュレーションに関わった経済戦審判部には、「秋丸機関」を率いた秋丸次朗中佐も含まれていたということで、ここが両組織の唯一の接点だったのかもしれません。

『日米開戦 陸軍の勝算』も近いうちに読んでみたいと思います。

4. 東條英機 元首相

総力戦研究所のシミュレーションの分析結果「日本必敗」は、その後の開戦に踏み切って大敗を喫するまでの日本軍の未来を見事に予測したものでした。

その結末に至る過程の中には「東京がアメリカ空軍により空襲を受ける」「ソ連とも開戦に至る」という、まるで未来を見てきたかのような状況想定までもが含まれていました。

組織のしがらみや、結論ありきの分析に囚われない総力戦研究所の模擬内閣によるシミュレーション結果は、現在のようなコンピュータ技術もなく、すべてが机上演習であったことを考えると、まさに驚愕レベルの正確な予測だったのです。

そのような、総力戦研究所の「日本必敗」という分析結果に対して、東條英機 元首相の以下のように総評しました(本著 p200)。

諸君の研究の労を多とするが、これはあくまでも机上の演習でありまして、実際の戦争というものは、君達が考えているような物では無いのであります。日露戰争で、わが大日本帝国は勝てるとは思わなかった。然し勝ったのであります。あの当時も列強による三国干渉で、やむにやまれず帝国は立ち上がったのでありまして、勝てる戦争だからと思ってやったのではなかった。戦というものは、計画通りにいかない。意外裡な事が勝利に繋がっていく。したがって、諸君の考えている事は机上の空論とまでは言わないとしても、あくまでも、その意外裡の要素というものをば、考慮したものではないのであります。なお、この机上演習の経緯を、諸君は軽はずみに口外してはならぬということであります。(表記は現代式に改め)

この点だけを切り出すと、いかにも元陸軍大将の東條英機という軍人が、大和魂を引き合いに出して、精神論だけで分析結果を軽視したと考えたくなりますが、そう単純なことではなかったことが、本著を読むと良く理解できました。

東條英機は、戦後東京裁判でA級戦犯となり、死刑判決を受けて処刑されました。

終戦直後に拳銃を使用し短刀を用いなかった自殺を図ったこと、しかもそれが自決未遂に終わったこともあり、東條英機に対するイメージは非常に悪いものになっており、一般的にも太平洋戦争を引き起こした張本人と考えられています。

しかし、本著にあるように、問題の核心は、東條英機(や陸軍)自身というよりも、軍部の独走を阻止できない旧政府の「大日本帝国憲法」の欠陥が原因でした。

東條英機の総理大臣就任が、周囲はもちろんのこと、本人も全くの青天の霹靂であったこと、昭和天皇の大命降下の意図は、陸軍トップの東條をもって陸軍の戦争突入を思い止まらすという、まさに「火中の栗を拾う」役割を背負ったのでした。

しかし、「大日本帝国憲法」では、統帥権は天皇の大権に属するので政府は関与できないのですが、その大権を行使したのは、天皇自身ではなく、統帥部(すなわち大本営=陸軍参謀本部+海軍軍令部)だったのです。

ややこしいのは、陸相も海相も政府側なのですが、肝心の統帥部は大本営側という構図なので、統帥部は政府と別個に勝手に作戦を発動できてしまいました。

大本営と政府の連絡会議で決まってしまえば、御前会議は単なる儀式に過ぎず、天皇はほとんど意見する機会がありませんでした。

そうなると、如何に東條英機が総理大臣として開戦に慎重な姿勢を取っても、大本営側に一方的に押し切られてしまったわけです。

このような開戦に至る背景を知ることで、世間の常識としての東條英機(と陸軍)悪玉論が如何に表面的なものに過ぎないのか、また、開戦に至った本当の原因究明をぼかしてしまう危険性を孕んでいるものと痛感しました。

5. 今泉兼寛 総力戦研究所一期生(模擬内閣 大蔵大臣)

総力戦研究所の模擬内閣シミュレーションで大蔵大臣役を務めた今泉兼寛大蔵省事務官(当時)について調べてみました。

1907年(明治40年)福島にて生まれる

1919年(大正8年)12歳 福島県立安積中学校入学
1924年(大正13年)17歳 福島県立安積中学校卒業(37期 )
1924年(大正13年)17歳 水戸高等学校 (旧制)入学
1926年(昭和4年)19歳 水戸高等学校 (旧制)卒業

1926年(昭和4年)19歳 東京大学文科二類入学 剣道部所属
1930年(昭和9年)23歳 東京大学文科一類卒業
1930年(昭和9年)23歳 大蔵省主税局入省

1934年(昭和9年)27歳 結婚 今泉綾子(旧姓河野)
    義父河野董吾(海軍中将、戦艦伊勢艦長:1926年12月1日 - 1927年12月1日)

1936年(昭和11年)29歳 長女誕生
1937年(昭和12年)30歳 次女誕生(南京勤務)

1941年(昭和16年)34歳 総力戦研究所入所 模擬内閣大蔵大臣

1943年(昭和18年)36歳 「総力戦と租税」出版(文憲堂)

1950年(昭和25年)43歳 経済安定本部建設交通局次長

1954年(昭和29年)47歳    日本専売公社 監理官
1958年(昭和33年)51歳    日本原子力研究所(原研) 総務理事退職(6月)
1960年(昭和35年)53歳 福島2区出馬(自民党)落選

19??年(昭和??年)??歳 横浜税関長
19??年(昭和??年)??歳 丸善石油化学工業 取締役、顧問

1982年(昭和57年)75歳    東京桑野会副会長
1982年(昭和57年)死没(享年75歳)

今泉<大蔵大臣>は、『昭和16年夏の敗戦』では、消極的主戦論者として描かれています(p123、「しかしさらに増税すれば財政的には破綻しないよ」)。

また、「演習中、模擬内閣の結論を押さえ込もうという素振りが飯村所長になかった」(p198)とも証言しています。

総力戦研究所の第一期研究生35名のなかで、戦後に政治家になったのは一人もいなかったそうですが、今泉兼寛は、1960年(53歳)第29回衆議院議員選挙で福島2区に出馬(落選)しています(10名出馬中5名当選、全体の7位)。

総力戦研究所には、各省庁は将来の大臣・次官と目される人物の参加を求められたということなので、模擬内閣の大蔵大臣だった今泉兼寛も、本来であれば大蔵大臣を目指すエリートだったのでは。。。とすると、本人にとっては戦後のキャリアは想定外なものだったのかもしれませんね。

それにしても、若干34歳にして、文字通り国家の将来の明暗を決定するような仕事に携わり、戦後も国の復興に尽力した先人への敬意を覚えずにはいられません。

余談ですが、今泉兼寛が晩年過ごした民家(世田谷区三軒茶屋1-10-2)は、かつて「うわばみ」と呼ばれる大蛇が現れて人々を困らせていたところ、家主がそれを退治したという伝説が残っている場所だそうです。

世田谷区三軒茶屋1-10-2

以上、『昭和16年夏の敗戦』の所感でした。

私は読書は遅いペースなのですが、本書は一気呵成に一晩で読み切ってしまいました。

『昭和16年夏の敗戦』は現在3つの版があります。内容は同じですが、あとがきがそれぞれ異なるようです。


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