[確率論的な科学が誤信を防ぐ] 『人間 この信じやすきもの』( T・ギロビッチ) - 誤信を持たないための処方箋

  

『人間 この信じやすきもの』(1993)を読みました。



社会心理学の専門家による一般人向けの教養書ですが、著者のギロビッチ氏は社会心理学の専門家なので、巷にあふれる啓蒙書とは違い、社会科学の理論に基づいた解説は強い説得力がありました。


著者は巻末で、誤信を持たないためには、「決定論的な」科学(物理学や化学)よりも「確率論的な」科学(統計学、確率過程)のほうが有効であると提言しています。


我が身を振り返ってみると、「確率論的な」科学を履修したのは、はるか昔の学生時代で、記憶も理解も曖昧です。。。


これを機会に、昔の文献を引っ張り出してきて復習することで、誤信を持たないための処方箋にしたいと思います。


以下に本著の内容の紹介と、個人的な所感をまとめました。

1. 人間 この信じやすきもの

邦題は『人間 この信じやすきもの - 迷信・誤信はどうして生まれるか』(1993年)は、コーネル大学教授のトーマス ギロビッチによる社会心理学に関するロングセラー本です。


人間は誤りやすく信じやすい生き物です。前後関係と因果関係を取り違えたり,ランダムデータに規則性を読み取ってしまったり,願望から事実を歪めて解釈してしまいます。

誤信迷信のよって来たる由縁を日常生活の数々の実例をもとに明快に整理,人間心理への理解を深める(出版社からのコメント)。

以下はAmazonの商品説明からの抜粋です。

誤信や迷信を許容していると、間接的にではあるが、別の被害を受けることになる。誤った考えを許容し続ける事は、初めは安全に見えてもいつのまにかブレーキが効かなくなる「危険な坂道」なのである。

誤った推論や間違った信念をわずかとはいえ許容し続けている限り、一般的な思考習慣にまでその影響が及ばないという保証が得られるだろうか?世の中のものごとについて正しく考えることができることは貴重で困難であり、注意深く育てていかなくいかなければならないものなのである。

(抜粋おわり)

本著は以下の11章から構成されています。
  1. はじめに
  2. 何もないところに何かを見る(ランダムデータの誤解釈)
  3. わずかなことからすべてを決める(不完全で偏りのあるデータの誤解釈)
  4. 思い込みで物事を見る(一貫性のないデータのゆがんだ解釈)
  5. 欲しいものが見えてしまう(動機によってゆがめられる信念)
  6. 噂を信じる(人づての情報の持つ歪み)
  7. みんなも賛成してくれている?(過大視されやすい社会的承認)
  8. 種々の「非医学的」健康法への誤信
  9. 人付き合いの方法への誤信
  10. 超能力への誤信
  11. 誤信への挑戦
本書は、学術書ではなく、一般人向けの教養書ですが、著者のギロビッチ氏は社会心理学の専門家なので、巷にあふれる啓蒙書とは質が違います。

「はじめに」で著者が指摘しているとおり、人々が誤った考え方を持ってしまうのは、正しい事実に出会っていないからではありません。

また、だまされやすい人や頭の悪い人が誤った考え方を持ってしまうわけでもなく、経験を積んだ専門家たちも、その専門領域で間違った考え方を持ってしまいます。

むしろ、人間が本来備えている優れた知覚能力を持っているがために知覚的錯覚を起こしてしまうのと全く同じように、本来備えている認知能力を持っているがために認知的な欠点や錯覚を起こしてしまうと考えられています。

日常生活の中で頻繁に起こることがらは、複雑に要因が絡み合った確率的な現象である

そこで、そうした現象を正しく評価する能力を養うためには、「決定論的な」科学(物理学や化学)を教育するよりも「確率論的な」科学(統計学、確率過程)を教育するほうが有効である

最終部の「誤信を持たないための処方箋」では、このように、誤信を防ぐために身につけるべき習慣をまとめていますが、単にそれだけではなく、「確率論的な」科学教育の重要性を強調しています。

本著は300ページの内容ですが、優れた和訳のおかげでスラスラと読み進めることができるのも特筆すべき点です。これは守一夫・秀子夫妻の共同翻訳作業の賜物です。

以下に、本著の書評をまとめました(以下太字は本文より引用)。

2. 何もないところに何かを見る(ランダムデータの誤解釈)

人間の本性は、予期できない現象や意味のない現象を嫌うのである。その結果、私たちは秩序がないところに秩序を「見いだ」そうとし、偶然の気まぐれだけに支配されているものに意味のあるパターンを発見してしまうのである。

上記がすべてを象徴しているのですが、わかりやすい一例として、プロ・バスケットボール選手の言葉を検証しています。

「波に乗っているときには、自身が湧くんだ。最初のショットが肝心だ。リングに当てずにスポッと入れてやることが。そうすれば、次のショットも決まる。そうなれば、もう怖いものなしだ」

私たちも、スポーツ選手の「波に乗っている」モードに入ったときの、手の付けられない絶好調ぶりを何度も観て記憶しています。

例えば、プレイオフで圧倒的な強さを発揮したシカゴ・ブルズのマイケル・ジョーダン選手の神がかり的なショットなど。。。

では、バスケットボールでは、本当に、成功が成功を生むのでしょうか?

ショットの成功失敗が実際に連続しがちであるかどうかを調べるために、著者は、1980-1981年のフィラデルフィア76ersの全ショット記録を調査しました。

調査結果では、実際には、むしろ「波に乗っている」状態とは反対に、直前のショットに失敗している場合の方が、次のショットが決まりやすい傾向が見られました。

ショットに成功した後のショットの成功率は51%であったのに対し、失敗後のショットの成功率は54%であった。2本連続成功した後のショットは50%の成功率であったのに対し、2本連続失敗後の成功率は53%であった。

同様に、3本連続成功した後のショットは46%の成功率であったのに対し、3本連続失敗後の成功率は56%であった。

これらのデータは、バスケットボールでの「成功が成功を生む」という考え、つまりショットが入りだすと続けて入り、外れだすと続けて外れだすという考えが誤りであることをはっきりと示している。

本文では、各選手の個別の統計データまで紹介して、詳しく分析した内容を紹介しています。


調査は徹底的で、この年度にプレーしていたフィラデルフィア76ersの8選手に面接調査してみると、ショットの成功・失敗が連続するとこれらの選手も信じていました。

興味深いのは、この分析結果を観て、実際に試合に関与していた人たちが皆、「波に乗る」という現象を信じることを止めたかというと、そうではなかったことです。

アメリカ・スポーツ史上最強のチームと言われていたボストン・セルティックスの監督であるR・オヴァーバックは、われわれの研究結果を見て、「誰だい、この男? 研究者? こんなことは関係ないよ」

また、全米大学選手権優勝チーム、インディア・フーザーズの監督B・ナイトも「バスケットボールのショットの成否にはたくさんの要因が関係しているんだ。こんな研究にはほとんど何の意味もないよ」と、答えた。

まさに、誤信というのは、だまされやすい人や頭の悪い人だけでもなく、経験を積んだ専門家たちも、その専門領域で間違った考え方を持ってしまい、さらに、それが間違いであると認めようとしないという裏付けになってしまいました。

まあ、友人と一緒にバスケットボールの試合を観戦して、応援チームの選手が立て続けにシュートを決めている最中にこのような正論をぶちかましたら、興ざめも甚だしいと思いますが(笑)。

バスケットボールの選手の「波に乗っている」が誤信だとしても、現実の社会で大きな損害や問題には繋がらないと思いますが、誤信が経済的もしくは環境破壊といった、より深刻な事態に繋がるケースが非常に多いことに著者は警鐘を鳴らします。

例えば、媚薬や特効薬といった誤信が原因で、多くの動物種が乱獲の末に絶滅の危機に追いやられている事実や、誤信に基づく誤った療法で患者が死に至らされているというケース、根も葉もない噂話の誤信により、個人の尊厳が著しく傷つけられるケースなど、枚挙にいとまがありません。

もうひとつの具体例が、第2次大戦の末期、ドイツ軍がロンドンを報復攻撃したV1/V2ロケットの着弾箇所の分布です。


ドイツ軍のロケットは、ロンドン市内の特定の地点に命中させる精度はなかったにも関わらず、ある地点に偏って落ちてくると信じていたロンドン市民が多くいました。

正しい統計的な分析結果でも、この着弾地点はランダムに散らばっていると証明されるのですが、地図を重ね合わせると、特定の標的(地図の左上と右下)があったのではないかという誤信が生まれます。

重要な点はまさにここにある。後付けでならば、どんなデータでも最も特異な部分を見つけて、そこにだけ都合のいい検定法を施すことができるのである。

科学者たちは、上述のような見かけ上の偏りからは仮説を立てるにとどめ、その仮説を新しい独立な一連のデータによって検証しようとする。

しかし、一般の人々の直感的な判断は、こうした厳密な制約を受けることがない。

筆者はさらに踏み込んで、統計的回帰現象の誤認についてもわかりやすく実例を挙げて、紹介しています。

統計学の回帰効果というのは、二つの変量が相関関係にあり、その相関が完全ではないときに、一方の変量の両端部分の値は、もう一方の変量ではより平均値に近い値と対応する傾向があることです。

身長195cmと非常に背の高い父親の子供の身長は、同様に非常に高い身長であるより、平均的な身長のほうが多いこと、極めて高い業績を残した企業の翌年の業績は、平均的な結果になることが多いこと、などなど。。。

もうひとつの問題は、回帰の誤謬です。

回帰の誤謬というのは、単なる統計学的な回帰現象に過ぎないものに対して、複雑な因果関係を想定したりして余計な「説明」をしてしまうことを言う。

素晴らしい成績の後、成績が落ち込むと怠けたせいであるとされたり、凶悪犯罪が頻発した後で犯罪件数の減少が見られると、新しい法律の施行が功を奏したためと考えられたりすることである。

偏りの錯誤と回帰の誤謬が絡み合うと、さらにややこしい誤信が生まれてしまいます。

3. わずかなことからすべてを決める(不完全で偏りのあるデータの誤解釈)

まず「信念と合致する情報の課題評価」について。

不妊の夫婦が養子をとると妊娠しやすくなるという誤信について、関係を表にまとめると以下のようになります。


誤信の原因は、上の表のaとdの部分、特にaの部分だけを重視し過ぎることにあります。

本来であれば、

養子をもらった後に妊娠した割合a/(a+b)と、養子をもらわなかった後に妊娠した割合c/(c+d)とを比較する必要がある

のです。

この、共変関係を示した「2x2分割表」は、一見単純で理解しやすいように思えますが、多くの誤信を防ぐための処方箋として非常に効果的です。

次に「仮設に合致する情報だけを捜そうとする傾向」について。

一例として、ヨーロッパの人(被験者)に、東ドイツと西ドイツ、スリランカとネパールの二つの組み合わせのうち、どちらの2か国が互いに類似しているかを尋ねてみます。

半分の被験者には、「どちらの2か国が似ているか」と質問し、残りの半分の被験者には、「どちらの2か国がより違っているか」と質問します。

驚くべきことに、前者の被験者のほとんどが、東ドイツと西ドイツを互いに似ていると答えた一方、後者の被験者の大半も、東ドイツと西ドイツを互いに違っている組み合わせと答えたのである

つまり、東ドイツと西ドイツは、スリランカとネパールよりも、互いに似ていて、かつ互いに似ていないという、矛盾した結論が引き出されることになってしまった

ヨーロッパの人は、スリランカとネパールよりも、東西ドイツの方をずっと良く知っているため、東西ドイツが共有することがらをたくさん想起することができます。

同時に、東西ドイツの互いに似ていない点もたくさん想起することができることになり、東西ドイツのほうが似ていないように感じられてしまうのです。

このように、「信念と合致する情報の課題評価」「仮設に合致する情報だけを捜そうとする傾向」は、わずかなことからすべてを決める誤信の典型的な原因なのです。

4. 誤信を持たないための処方箋

上に紹介した内容は、本著のごく一部です。

ほかにも、人の話の誇張と省略について、話の面白さのための脚色の弊害、セルフギャッピング(自分にとって不利な点を示すことによって、自分の行動に対する他人の評価を良くしようとする行為)など、興味深いトピックが豊富に挙げられています。

日常に起こる偶然の一致や、一見有り得ない確率と思われる事象も、統計学的な見地から冷静な見方をすれば、そんなに驚くほどのことでもないという事例があります。

たとえば、パーティでたまたま誕生日が同じ人がいたという偶然の一致は、参加者が23人いれば、ほぼ50%の確率でそのような組がいることが計算でわかります(23人中の2人の組み合わせ)。

また、自分の先祖の数は、28代(1代を20年とすると約560年前)まで遡ると、1億人を超えるという計算結果(2の累乗)を知れば、自分の先祖にたまたま歴史上の有名人物がいたとわかっても、特に驚くことではないかもしれません。

冒頭に書いたとおり、最終部の「誤信を持たないための処方箋」では、誤信を防ぐために身につけるべき習慣をまとめています。

しかし、私が本著を読んで最もインパクトが強かったのが、「確率論的な」科学教育の重要性を強調している最終章です。

日常生活の中で頻繁に起こることがらは、複雑に要因が絡み合った確率的な現象である

そこで、そうした現象を正しく評価する能力を養うためには、「決定論的な」科学(物理学や化学)を教育するよりも「確率論的な」科学(統計学、確率過程)を教育するほうが有効である

心理学者のグループが、大学院で心理学、化学、医学、法律学をそれぞれ学んでいる学生に対して、統計学的な推論と、方法論的な推論についての能力を調べ比較した興味深い結果が紹介されています。

統計学的な推論や方法論的な推論を正しく行うためには、社会科学の研究訓練を受けることが最も効果的であることが示されたのである

性格心理学や社会心理学といった領域が学部学生に人気があるのも、彼らが日常生活のなかで出会ったり考えたりする現象を研究対象とするものだからであろう

私事で恐縮ですが、今年の4月から大学生になったウチの長女は、大学で心理学を専攻しています。

心理学や社会科学は、私が学生時代には(経済や法や理工と比較して就職活動に必ずしも有利ではないということもあり)決してメジャーな専攻分野ではありませんでしたが、時代の変遷とともに、このような統計学的な推論を行う学問にも注目が集まってきているのかもしれません。

社会科学者である筆者はこう書いています。

社会科学者は、物理学に対してコンプレックスを感じている

確かに、いわゆる「ハード・サイエンス」がもたらした進歩は目をみはるばかりである。おそらく、社会科学は逆立ちしてもかなうことはないだろう。しかしながら、社会科学が研究対象としてきたような複雑でやっかいな現象を研究することには特別な利点があることを認識することも重要である

社会科学が世の中でさらにメジャーになるのではという期待が込められていますね。

これで連想するのが、古典SF小説『宇宙船ビーグル号の冒険』に登場する主人公のエリオット・グローヴナーです。


彼は、小説のなかでは、総合科学者(ネクシャリズム)という肩書で、社会学、心理学、教育学といった社会・人間科学(人文科学、社会科学)諸分野を統合したような、それぞれの分野の橋渡しをするための学問です。

小説では、最初は既存の学問の専門家から軽視されていた総合科学が、ビーグル号が遭遇する数々の異星人からの攻撃に対する解決策を提示することによって、次第に地位を確立してゆくというストーリーでした。

『宇宙船ビーグル号の冒険』は、映画『エイリアン』の構想にも大きな影響を与えたと言われており、また、古典SF小説のなかでも人気の高い作品です。

5. 「計量経済学」と「確率過程」

我が身を振り返り、誤信を持たないための処方箋としての「確率論的な」科学に対する理解を深めようと思い立ちました。

というのも、確率論や、統計学、確率過程は、理系出身にも関わらず個人的に最も苦手とする領域だったからです。

そこで、学生時代の教科書を2冊引っ張り出して、もう一度しっかりと学習しようと計画を立てることにしました。

ひとつは、夜間の社会人大学院時代に履修した「計量経済学」(Econometrics)です。


こちらは、回帰分析の手法を使って、マネジメント・ゲームというシミュレーションを行う際に参照した文献です。

マネジメント・ゲームでは、バーチャルな企業経営を、グローバルの6地域の市場における時計という製品の価格・品質・マーケティングという3つの要素を回帰分析によって最も効果的な投資を行うことで、売上や利益、株価において他のチームと競争するというものでした。

回帰分析は、実社会でも幅広く応用されている手法で、『人間 この信じやすきもの』のなかにもたびたび出てきます。

しかし、学習したのは遥か昔の話で、「F検定」や「錯乱項」など、用語の意味さえ曖昧になっており、抜本的な復習が必要ですね。

もうひとつの文献が、留学時代に履修した「確率過程」(Stochastic Process)です。


確率過程(Stochastic Process)と確率論(Probability)と違いは、「「確率的」を意味する「Stochastic」と「Probabilistic」(Probability)は何が違うか?」というサイトの解説がわかりやすいので、以下引用します。

「何%の確率」(=イベントが発生する可能性の高さ)などという一般的な意味の「確率」は、英語で「probability」です。その関連用語(形容詞化?)が「probabilistic」(確率的)です。確率(probability)に関する数学の一分野は、「確率論」(Probability theory)と呼ばれます。

一方、統計分析において「ランダムに決定するプロセスであること」は、英語で「stochastic」です。日本語では、同じく「確率的」と訳されますが、、むしろ「確率論的」という訳語の方が適切かもしれません。というのも、「stochastic」の「ランダムに決定するプロセス」は、確率論(Probability theory)に基づく考え方であるためです。つまり「stochastic」は、あくまで確率論の一部であり、特に「ランダムであること」が重要なのです。

「probabilistic」には、「ランダム」の意味はなく、シンプルに「イベント発生の可能性であること」だけを示しています。そこが両用語の使い分け基準になるかと思います。

(引用おわり)

平たく言ってしまえば、(ある物事の到着や事象の発生が)ランダムという事象に特化した確率論であり、ネットワークのトラフィック解析や、株式市場での株価の変動など幅広い応用分野があります。

私は、留学初年度に、"Stochastic Singals and Noise"という科目を選択しました。

内容は、「ベルヌーイ過程」から始まり、「ポアソン過程」「マルコフ連鎖」「マルコフ過程」など。

ベルヌーイ過程は、ある事象(1か0)の発生確率がpか1-pというシンプルなものです(それでも数学的にはかなり高次です)。

ポアソン過程では、ある事象の発生は、対象物(ショップを訪れる客、通信のトラフィック、放射線物質など)が「到着する」という概念に置き換わります。
ベルヌーイ過程と同様、ポアソン過程でも、到着の確率は過去の事象に全く無関係であり、到着の数は離散数字(1,2,3..)となります。

マルコフ連鎖になると、行列式の概念が導入され、ポアソン過程では離散数字であった状態が、多次元の位置を取るようになりさらに複雑度が増します。

マルコフ過程では、マルコフ連鎖では単純化されていた、ある状態から次の状態への変遷に要する「時間」というアナログ要素が加わり、単純な問題でも、微積分を駆使した数式のオンパレードになります。

以下余談ですが。。。

担当教授はAurel Lazarというこの分野で著名な研究者であり、20人の履修生は、インド人、フランス人、中国人、セルビア人など多様でしたが、皆、私からすると「超」のつく天才ばかりでした(ちなみに記憶ではアメリカ人は一人もいませんでした)。

学部では確率過程を履修済みだったので、まあ大丈夫だろうと気軽に履修したのが運の尽き。

全身全霊で取り組んだものの、中間テストでは落第点を取ってしまい追試を受け、初年度からいきなり進級の危機に陥りパニックになりました。

自分で言うのも何ですが、人生でこの時ほどハードに頭を酷使した時期はありません。

とにかく、自分がこれまで日本で受けてきた科学教育(あるパターンを習得してそれを応用するというもの)では、まるで太刀打ちできません。

とにかく、何らかの課題を提示されて、それを解決するには、自分で変数をいくつか仮定して、モデリングをして、数式を自分の頭で導き出すという、全く別次元の能力を要求されました。

驚くべきことに、クラスメートの天才たちは(教科書など参照せずとも)、いとも簡単にそのような思考回路で問題を解決してしまうのです。

自分の数学的思考能力を根底から変革させようと悪戦苦闘の日々で、発狂する寸前まで自分を追い込みました。。。


当時の教科書には、上の写真のように、ページをめくりまくってできたクッキリとした汚れが残っています。

その甲斐あってか、何とか追試をクリアして、期末テストでも奇跡的に及第点を取り、無事に単位(B+)を取れました。

思い返すと、この「確率過程」が、その後の自分の社会人キャリアを決める大きな転換になったような気がします(ちょっと大袈裟か?)

今回『人間 この信じやすきもの』を読んだことを機に、これらの文献をもう一度復習して、誤信を持たないための処方箋に役立てようと思います。

6. 『錯覚の科学』(2011)と併せて

本著を読んだきっかけは、心理学者のクリストファー・チャプリスの『錯覚の科学』を読んだことでした。

『錯覚の科学』も、本著と同様、人間は、自分が考えている以上に錯覚を起こしやすく、実際に起こしている事実を、数多くの実験結果の実証に基づいて説明した良著です。


『錯覚の科学』と、本著『人間 この信じやすきもの』を2冊合わせて読むことで、人間の錯覚や誤信がいかにして生まれるのか、そして、どうすれば錯覚や誤信を防ぐことができるのか、体系的に理解することができました。


この『錯覚の科学』の原題は、"The Invisible Gorilla"(見えないゴリラ)です。

『錯覚の科学』も、機会があればブログ記事にして紹介したいと思います。

[目に見えないゴリラ] 『錯覚の科学』(チャプリス/シモンズ)が解き明かす思い込みと錯覚の世界

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